報恩抄 下 (訳文-2)

 

 お答えします。


 ただし、古代の人々が、不可思議の徳を持っていた場合であっても、仏法の邪正は、
そのような事に依っておりません。
 
 インドの外道が、恒河(ガンジス河)の水を、自らの耳に十二年間留めたり、或い
は、大海の水を吸い干したり、或いは、太陽や月を手に握ったり、或いは、仏教徒を
牛や羊に変えたりしました。

 けれども、彼等は、益々、大慢を起こして、生死に迷う業因を積んでいったのであ
ります。

 このことを、天台大師は、『法華玄義』において、「名利を求めることによって、
見愛(注、三界の煩悩を総称した見思惑のこと。)を増す行為である。」と、御解釈
されていらっしゃいます。

 光宅寺の法雲が、忽(たちま)ちに雨を降らせたり、須臾(瞬時)に花を咲かせた
ことに関しても、妙楽大師は、『法華玄義釈籤』において、「感応は、このように勝
れていたとしても、なお、仏法の理には適っていない。」と、お書きになられていま
す。

 天台大師は、法華経をお読みになられて、須臾(瞬時)に、甘雨を降らせていらっ
しゃいます。
 また、伝教大師も、三日の間に、甘露の雨を降らせていらっしゃいます。

 しかし、天台大師も伝教大師も、雨を降らせたことによって、「御仏意に叶ってい
る。」とは、仰せになられていません。

 仮に、弘法大師が如何なる徳をお持ちであったとしても、法華経を『戯論の法』(児
戯に類した無益な法)と定めて、釈迦仏のことを『無明の辺域』(煩悩に縛られた迷
いの境地)と書かれている御筆(記述)を、賢い智慧をお持ちの人が用いてはなりま
せん。
 ましてや、上記に挙げられている、弘法大師の徳の数々には、不審な事があります。

 弘法大師の『般若心経秘鍵』においては、「弘仁九年の春、天下に大疫病が流行し
た。」等と、記されています。
 春は九十日(3ヶ月)あります。弘仁九年の何れの月、何れの日になるのでしょう
か。
 これが、第一の不審点です。

 そもそも、弘仁九年には、大疫病が発生していたのでしょうか。
 これが、第二の不審点です。

 また、弘法大師の『般若心経秘鍵』においては、「夜が変じて、日光が赫々と輝い
ていた。」と、記されています。
 この記述の真偽は、もっとも大事なことです。

 弘仁九年は、嵯峨天皇の御時代となります。
 そのような記述が左史・右史の記録(太政官の公文書)に掲載されているのでしょ
うか。
 これが、第三の不審点です。

 たとえ、左史・右史の記録(太政官の公文書)に掲載されていたとしても、信じ難
い事であります。
 何故なら、成劫二十劫・住劫九劫・以上二十九劫の間において、未だに、発生して
いない天変であるからです。

(注記、仏教の経典では、『成・住・壊・空』の『四劫』が説かれている。
 ある世界が成立して、流転・破壊を経てから、次の成立に至るまでの期間を、『成劫・
住劫・壊劫・空劫』の四つに分けられている。

 上記御金言の「成劫」とは、世界が生成していく時代のこと。
 また、上記御金言の「住劫」とは、世界が安定・構築していく時代のことになる。

 そして、『成劫・住劫・壊劫・空劫』は、それぞれ、二十劫ずつに分かれている。
 その一劫は、人寿が十歳から八万歳まで増えて、また、八万歳から十歳まで減ってい
く期間となる。

 上記御金言の「住劫九劫」とは、『住劫』の二十劫における、第九番目の劫の時期を
意味している。
 また、上記御金言の「二十九劫が間」とは、『成劫』の二十劫+『住劫』の九劫=『二
十九劫』を意味している。)

 夜中に、日輪(太陽)が出現したという事は、如何なる事でしょうか。
 また、釈迦如来御一代の聖教にも、そのような記載は見受けられません。

 「未来において、夜中に、日輪(太陽)が出る。」ということは、中国の三皇(伏
羲、神農、黄帝)・五帝(ショウコウ、センギョク、テイコク、帝堯、帝舜)の三墳
・五典(三皇・五帝に関連した書物)にも掲載されていません。

 仏教の経典においては、減劫(人寿が減少していく時代)の時にだけ、「二つの日
(太陽)、三つの日(太陽)、以下、七つの日(太陽)が出る。」という旨の御記述
があります。
 けれども、それは、昼間のことです。
 夜に日(太陽)が出現すれば、東・西・北の三方角は、一体、どうなるのでしょう
か。
 
 たとえ、内典(仏教の書物)・外典(仏教以外の書物)に記載されていなくても、
現実に、「弘仁九年の春、何れの月、何れの日、何れの夜の、何れの時に、日(太陽)
が出た。」という旨の公家・諸家・比叡山等の日記(記録)が存在するならば、少し
は、信じることも出来るでしょう。

 その次の『般若心経秘鍵』の記述では、「昔、私(弘法大師)は、霊鷲山の御説法
の際に、莚(むしろ)に座して、親しく、その深文を聞き奉っている。」等と、書か
れています。

 この記述は、この筆(般若心経秘鍵)を、他の人に信用させるために、創作した大
妄語でしょう。

 仮に、『般若心経秘鍵』の記述が真実であるならば、霊鷲山において、「法華経は
戯論、大日経は真実。」と、仏(釈尊)がお説きになられたことを、阿難・文殊が誤
って、「妙法華経は、皆、是れ、真実である。(妙法華経 皆是真実)」と、書いて
しまったことになるのでしょうか。
 その他、如何に解釈すれば、宜しいのでしょうか。

 語るに足りない淫女(和泉式部)や破戒の法師(古曾部入道)等が和歌を詠んで、
雨を降らせたにも関わらず、三七日(三週間)経っても、雨を降らせることが出来な
かった人(弘法)に、このような徳があるのでしょうか。
 これが、第四の不審点です。

 『孔雀経音義』においては、「弘法大師は、智拳の印(金剛界の大日如来が結んで
いる拳の印)を結んで、南方に向かうと、急に面門(口)が開いて、金色の毘盧遮那
仏と成った。」等と、記されています。

 この記述も、また、「何れの王、何れの年、何れの時」の出来事に該当しているの
でしょうか。

 漢土(中国)においては、『建元』の時代を始めとして、日本においては、『大宝』
の時代を始めとして、緇素の日記(僧侶・在俗の記録)が存在しています。
 そして、大事件が発生した時には、必ず、その年号が記されています。

 ところが、これほどの大事件があったにもかかわらず、王の名前も、臣下の名前も、
年号も、日時も、何故に、記されていないのでしょうか。

 また、その次の『孔雀経音義』の記述においては、「三論宗の道昌、法相宗の源仁、
華厳宗の道雄、天台宗の円澄等は、皆、その法類である。」等と、記されています。

 そもそも、円澄は、寂光大師と称しています。日本天台宗・第二代の座主になりま
す。
 では、なぜ、その時に、日本天台宗・第一代の座主であった義真和尚や、日本天台
宗の根本(宗祖・本師)となる、伝教大師を招かなかったのでしょうか。

 円澄は、日本天台宗・第二代の座主であります。そして、円澄は、伝教大師の御弟
子でした。けれども、その一方では、弘法大師の弟子でもありました。
 
 従って、弟子の円澄を召くよりも、あるいは、三論宗の道昌、法相宗の源仁、華厳
宗の道雄を招くよりも、日本天台宗の伝教大師・義真和尚のお二人を召くべきだった
のではないでしょうか。
     
 しかも、この日記(孔雀経音義)においては、「真言瑜伽の宗(瑜伽の修行をする
真言宗)と真言密教の曼荼羅の道法は、この時から建立された。」等と、記されてい
ます。
 この『孔雀経音義』の筆記は、「伝教大師・義真和尚が御存命されている時のもの
である。」と、見受けられます。  

 弘法は、平城天皇の御時代の大同二年(807年)から弘仁十三年(822年)ま
で、盛んに、真言宗を弘めた人であります。
 その時、このお二人(伝教大師・義真和尚)は、現に、御存命でいらっしゃいまし
た。
 
 また、義真和尚は、天長十年(833年)まで生きていらっしゃいました。
 ならば、その時(833年)まで、弘法の真言宗は、弘まっていなかったのでしょ
うか。
 このように、『孔雀経音義』には、色々と、不審な点があります。

 そもそも、孔雀経の注釈書(孔雀経音義)は、弘法の弟子である真済が、自ら記し
た書物であります。
 因って、その内容は、信じ難いものがあります。

 また、真済は、邪見の者ではないでしょうか。
 このような書物を作成する際には、公家・諸家・天台宗の円澄の記述を引用して、
正当性を立証するべきでしょう。
 併せて、三論宗の道昌・法相宗の源仁・華厳宗の道雄の記述も引用するべきです。

 そして、『孔雀経音義』においては、「急に面門(口)が開いて、金色の毘盧遮那
仏と成った。」等と、記されています。

 「面門」とは、口のことです。口が開いたのでしょうか。
 「眉間が開いて」と書こうとしたものを、誤って、「面門(口)」と書いてしまっ
たのでしょうか。
 謀書(偽書)を作成するが故に、このような誤りがあるのではないでしょうか。
     
 『孔雀経音義』においては、「弘法大師は、智拳の印(金剛界の大日如来が結んで
いる拳の印)を結んで、南方に向かうと、急に面門(口)が開いて、金色の毘盧遮那
仏と成った。」と、云われています。
 
 しかし、涅槃経の第五巻においては、このように仰せになられています。

 「迦葉は、仏(釈尊)に申し上げた。

 世尊よ。我(迦葉)は、今、この四種の人(注、如来の御入滅後に依り所となる人。
須陀オン・斯陀含・阿那含・阿羅漢)に依らない。

 如何なる理由の故か。
 それは、『瞿師羅経』の中において、仏(釈尊)が瞿師羅の為に、このようにお説
きになられているからである。

 『もし、大宇宙の天魔が、仏法を破壊しようと欲するが故に、身を変じて、如来の
像(姿)となったとする。

 その有様は、仏の相好である三十二相・八十種好を具足しており、荘厳なる輝きを
発している。
 そして、その円満なる顔の光は、満月の明かりのように、遍く行き渡っている。

 眉間の白毫相(注、仏の眉間に白毛があること。三十二相の一つ。)は雪よりも白
く、(中略)、左の脇より水を出したり、右の脇より火を出したりする。』と、お説
きになられているからである。」と。

 また、涅槃経の第六巻においては、このように仰せになられています。

 「仏(釈尊)は、迦葉に対して、このように告げられた。

 『私(釈尊)が般涅槃(御入滅)した後に、 (中略)
 この魔波旬(第六天の魔王)が、段々と、当に、我が正法(釈尊の仏法)を破壊す
るであろう。 (中略)

 第六天の魔王が姿を変化させて、阿羅漢の身や仏の色身となるであろう。
 そして、第六天の魔王が、有漏の形(煩悩を有している身)でありながら、無漏の
身(煩悩を離れた身→仏の御身)に変じて、我が正法(釈尊の仏法)を破るであろう。』」
と。

 弘法大師は、「法華経は、華厳経・大日経に対しても、戯論(稚戯の如き拙い教え)
に過ぎない。」等と、云っています。
 しかも、弘法大師は、「仏身を現じた。」と、云っています。

 これらのことを、「第六天の魔王が、有漏の形(煩悩を有している身)でありなが
ら、仏の御身に変じて、我が正法(釈尊の仏法)を破るであろう。」と、涅槃経にお
いて、お記しになられているのであります。
    
 涅槃経で仰せになられている、『正法』とは、法華経のことになります。
 故に、その次の涅槃経の経文においては、「久しく、既に、成仏している。」と、
仰せになられています。
 また、涅槃経の経文では、「涅槃経は、法華経の中の如し。」等と、仰せになられ
ています。

 釈迦如来・多宝如来・十方の諸仏は、「一切経の中において、法華経は、真実の教
えである。大日経等の一切の経典は、不真実の教えである。」等と、仰せになられて
います。
 しかし、弘法大師は、「私(弘法大師)は仏身を現じた。華厳経・大日経に対すれ
ば、法華経は戯論となる。」等と、云われています。

 仏説が真実であるならば、まさしく、弘法は、天魔になるのではないでしょうか。

 また、三鈷(注、三鈷杵。真言密教の祈祷に用いる道具。)の記述は、特に不審が
あります。
 「漢土(中国)の人が、日本にやって来て、三鈷を掘り出した。」ということも、
信じ難いものがあります。

 以前から、人を遣わして、三鈷を埋めていたのではないでしょうか。
 ましてや、弘法は、日本の人であります。高野山に三鈷を埋めることは、簡単に出
来るはずです。
 
 弘法には、このような虚偽の話が多くあります。
 これらの事例を以て、「弘法は、御仏意に適っている人である。」と、認知するこ
との証拠とはなりません。


 そして、真言宗・禅宗・念仏宗等が次第に興隆してきた頃に、人王第八十二代・尊
成隠岐の法王(後鳥羽法皇)が、権太夫殿(北条義時)を滅ぼそうとして、年々、計
画を練っておられました。

 特段のことをしなくても、隠岐の法王(後鳥羽法皇)は国主(天皇)のお立場でし
たから、あたかも、師子王が兎(うさぎ)をねじ伏せるように、鷹が雉(きじ)を取
るように、権太夫殿(北条義時)を屈服させることは容易のはずでした。

 その上、隠岐の法王(後鳥羽法皇)は、比叡山・東寺・園城寺・奈良七大寺・天照
太神・正八幡・山王神社・加茂神社・春日神社等に、数年の間、或いは調伏の祈祷を
させたり、或いは神に祝詞を申し上げていました。

 にもかかわらず、戦が始まってしまうと、権太夫殿(北条義時)の攻撃を、二日・
三日の短期間さえも防ぐことが出来ずに、順徳上皇は佐渡の国(新潟県)へ、土御門
上皇は阿波の国(徳島県)へ、後鳥羽上皇は隠岐の国(島根県)へ流罪となってしま
いました。
 最終的に、この三人の上皇は、流罪の地で崩御なされたのであります。
     
 権太夫殿(北条義時)を調伏するための上首(代表者)であった、仁和寺御室(道
助法親王・後鳥羽上皇の第二皇子)は、ただ、東寺を追放されただけではありません。
 眼の如く寵愛されていた、第一の天童・勢多伽(道助法親王の長男)が首を切られ
たことは、調伏の祈祷が逆の作用をもたらした証拠であります。

 それは、「まさしく、『還著於本人』(注、法華経観世恩菩薩普門品第二十五の経
文が出典。法華経の行者を謗ったり害する者は、かえって、自分自身に、その果報を
受けるようになること。)の故である。」と、見受けられます。 

 しかし、この惨事は、まだ、僅かの事であります。
 この後、必ずや、日本国の国臣・万民が一人も漏れなく、まるで、乾草を積んで火
を付けられたように、大山が崩れて谷が埋められたように、我が国(日本国)が他国
から攻められる事が出来するでしょう。

 私(日蓮大聖人)も、その徳を仰いで、信じ奉っています。