報恩抄 上 (訳文-2)
質問致します。
華厳宗の澄観、三論宗の嘉祥、法相宗の慈恩、真言宗の善無畏・弘法・慈覚・智証
等のことを、『仏の敵』と、貴殿は仰っているのでしょうか。
お答えします。
このことは、大いなる難であります。仏法における、第一の大事であります。
私(日蓮大聖人)の愚眼を以て、経文を拝見すると、「法華経より勝れたる経典が
ある。」と云う人は、「たとえ、如何なる人であったとしても、謗法の罪を免れる事
が出来ない。」と、見受けられます。
故に、経文の如く、申し上げるのであれば、「如何なる理由を以て、『彼等が仏敵
ではない。』と、云えるのでしょうか?」ということになります。
もし、また、恐れを為して、そのことを指摘せずに、黙止するのであれば、一切経
の勝劣は空しくなってしまうことでしょう。
また、彼等を恐れるがために、各宗派の末流の人々だけを、『仏敵』と云ったとし
ます。
この場合に、各宗派の末流の人々は、「『法華経より大日経が勝っている。』と、
申していることは、我見や私見ではない。当宗の祖師の御義である。持戒・破戒の修
行の違い、智慧の勝劣、身分の上下はあったとしても、学んだ所の法門においては、
違う事がない。」と、云うことになるでしょう。
この場合には、各宗派の末流の人々に、咎(とが・過失)がなくなってしまいます。
また、日蓮が、この事を知りながら、世間の人々を恐れて、申し上げなかったなら
ば、涅槃経において、「むしろ、身命を喪失したとしても、教えを隠匿してはならな
い。(寧喪身命不匿教者)」と仰せになられている、仏陀(釈尊)からの諫暁を用い
ない者となってしまいます。
如何にすれば、宜しいのでしょうか。
この事を云おうとするならば、世間からの難は、恐ろしいものがあります。
黙止しようとするならば、仏(釈尊)からの諫暁を、免れる事が出来なくなります。
進退は、ここに、窮まってしまいました。
それは、尤も(もっとも)なことでしょう。
法華経法師品第十の経文においては、「しかも、この法華経は、如来の御在世でさ
え、なお、怨嫉が多い。ましてや、如来の滅度の後には、尚更である。」と、仰せに
なられています。
また、法華経安楽行品第十四においては、「一切世間において、怨が多いため、信
じ難い。」等と、仰せになられています。
釈迦如来を、御母堂の摩耶夫人が御懐妊された際に、第六天の魔王が摩耶夫人の御
腹を通し見て、「我等が大怨敵である、『法華経』と申す利剣を、摩耶夫人が懐妊し
た。事の成ぜぬ先に(釈尊がお生まれにならないうちに)、何としても、亡き者にし
てしまおう。」と、考えました。
そこで、第六天の魔王は、大医の姿に変身して、浄飯王宮に入りました。
そして、「御産・安穏の良薬を持って来た、大医であります。」と喧伝して、毒を
后(摩耶夫人)に献じたのであります。
その後、釈尊がお生まれになった際には、第六天の魔王が石を降らせたり、乳に毒
を混入させたり、そして、釈尊が城を出られる際には、第六天の魔王が黒い毒蛇に変
じて、道を塞いだりしました。
それ以外にも、第六天の魔王は、提婆達多・瞿伽利・波瑠璃王・阿闍世王等の悪人
の身に入り込むことによって、或いは、提婆達多に大石を投げさせて、仏(釈尊)の
御身から血を出させたり、或いは、釈迦族の人たちを殺したり、或いは、釈尊の御弟
子等を殺害しました。
これらの大難は、皆、第六天の魔王等によって、「仏・世尊に、法華経を説かせて
なるものか。」と、巧みに共謀されたものであります。
これらは、法華経法師品第十において、「如来の御在世でさえ、なお、怨嫉が多い。
(如来現在猶多怨嫉)」と、仰せになられている大難に該当致します。
これらの大難は、遠い難(釈尊御在世当時の大難)になります。
それよりも、近い難があります。
舎利弗・目連・諸の大菩薩等も、法華経が説かれる以前の四十余年間は、法華経の
大怨敵の内に該当する人たちでした。
法華経法師品第十の経文においては、「ましてや、如来の滅度の後には、尚更であ
る。(況滅度後)」と、仰せになられています。
つまり、「未来の世には、また、これらの大難よりも、更に、恐ろしい大難が存在
するであろう。」と、お説きになられているのです。
仏(釈尊)でさえも、忍び難いような大難を、凡夫は、如何にして、忍ぶ事が出来
るのでしょうか
ましてや、「仏(釈尊)の御在世よりも、更に、大きな大難である。」と、伝えら
れています。
それは、如何なる大難になるのでしょうか。
提婆達多が長さ三丈(約9メートル)・広さ一丈六尺(約5メートル)の大石を投
げたり、阿闍世王が象を酔わせて、釈尊を殺害しようとしたことよりも、更に、超過
した大難であると思われます。
法華経の経文には、「釈尊がお受けになられた大難よりも、更に、勝った大難であ
る。」という主旨のことが、お説きになられています。
ならば、「たとえ、小さな過失がなかったとしても、大難に、度々、値う人こそ、
如来滅後の法華経の行者(注、日蓮大聖人のこと)である。」と、知るべきでしょう。
付法蔵の人々(釈尊の仏法を順次に付嘱された二十四人の方々)は、四依の菩薩(釈
尊の滅後に正法を護持弘通して、人々の依り所となる四種の人格を有した菩薩)であ
ります。
そして、付法蔵の人々は、仏(釈尊)の御使いであります。
提婆菩薩は、外道に殺されています。
師子尊者は、檀弥羅王に頭を刎ねられています。
仏陀密多は十二年間、竜樹菩薩は七年間も、国王を改心させるために、赤旗を掲げ
通されています。
馬鳴菩薩は、金銭三億の代償として、他国に身を移されています。
如意論師は、謀略に陥れられたため、無念の死を遂げられています。
これらの方々は、正法時代の一千年間の内に、御出現なさっています。
像法時代に入って五百年、乃ち、仏滅後一千五百年と云われる時、漢土(中国)に
一人の智人が御出現なされました。
その御名を、始めは『智ギ』、後には『(天台)智者大師』と号されています。
天台大師は、「法華経の義を、ありのままに弘通しよう。」と、思われました。
ところが、天台大師が御出現される以前の百千万の智者(他宗の僧侶)は、それぞ
れに、釈尊御一代の聖教を判じていました。
結局の所、『十流』、所謂、『南三・北七』と呼ばれる宗派に分かれていました。
このように、当時の漢土(中国)には、十流の宗派がありました。けれども、その
中の一流を以て、最上としていました。
所謂、『南三』の中で、第三番目に数えられる、光宅寺の法雲法師の一派でありま
す。
この人(法雲法師)は、釈尊御一代の仏教を、五つに分けていました。
その五つの中から、三経を選び出していました。
所謂、華厳経・涅槃経・法華経であります。
法雲法師は、「一切経の中においては、華厳経が第一である、大王の如し。涅槃経
が第二である、摂政・関白の如し。第三の位の法華経は、公卿等の如し。この三経以
下の経典は、万民の如し。」と、云っていました。
この人(法雲法師)は、元々、智慧が賢かった上に、慧観・慧厳・僧柔・慧次等と
いう大智者から、法門を習い伝えられていました。
それのみならず、『南三・北七』の諸師の義を責め破り、山林に交わって(こもっ
て)からは、法華経・涅槃経・華厳経の研鑽を積んでいました。
そこで、梁の武帝は、法雲法師を召し出して、内裏の内に、寺院を建立しました。
梁の武帝は、その寺院を『光宅寺』と名付けて、この法師(法雲法師)を崇めてい
ました。
また、「法雲法師が法華経を講じた時、天から花が降る有様は、あたかも、仏(釈
尊)の御在世のようであった。」と、伝えられています。
天監五年に、大旱魃があったため、天子(梁の武帝)は法雲法師を招請されて、法
華経を講じさせました。
すると、法雲法師が法華経薬草喩品第五の「其雨普等・四方倶下」の二句を講じて
いた時、天から甘雨が降ってきました。
そのため、天子(梁の武帝)は感激のあまり、即座に、法雲法師を僧正の位に任じ
ました。
あたかも、諸天が帝釈天王に仕えるように、また、万民が国王を怖れるように、天
子(梁の武帝)自らが、法雲法師に仕えたのであります。
その上、或る人が、「この人(法雲法師)は、過去に、灯明仏がいらっしゃった時
より、法華経を講じてきた人である。」という夢を見たそうです。
法雲法師には、『法華経義疏』という著書が四巻あります。
『法華経義疏』において、「この経(法華経)は、未だ、真理を明かしていない。」
と、法雲法師は云っています。
また、『法華経義疏』において、「法華経には、異なった方便が記されている。」
等と、法雲法師は云っています。
まさしく、「法華経は、未だ、仏理を極めていない経典である。」と、『法華経義
疏』には書かれているのであります。
この人(法雲法師)の御義が、仏意に相い叶っているからこそ、天より、花も下り、
雨も降ってきたのでしょうか。
このように、特筆すべき事があったため、「それでは、法華経は、華厳経・涅槃経
よりも劣る経典なのであろう。」と、漢土(中国)の人々は思うようになりました。
その上、新羅・百済・高麗・日本の地まで、『法華経義疏』が弘まったため、大体、
世間一同が、法雲法師の御義を用いるようになりました。
ところが、法雲法師が御死去されてから間もない頃、つまり、梁の時代の末・陳の
時代の始めに、智ギ法師(天台大師)と云う小僧が御出現なされたのであります。
智ギ法師(天台大師)は、南岳大師と云う方の御弟子でありました。
けれども、師匠(南岳大師)の義に、若干の不審をお持ちになっていたこともあっ
て、智ギ法師(天台大師)は、一切経が保管されている蔵に入り、度々、経典を御覧
になられました。
その中でも、華厳経・涅槃経・法華経の三経を選び出されて、特に、華厳経を講じ
られていました。
その他にも、礼文(仏を礼拝する賛嘆文)を造って、日々、功徳を積まれていたの
で、世間の人々は、「この人も、『華厳経第一』と、思っているのだろう。」と、見
ていました。
ところが、智ギ法師(天台大師)は、法雲法師が一切経の中において、『華厳経第
一・涅槃経第二・法華経第三』と立てたことが、あまりに不審であったため、殊更、
華厳経を御覧になられていたのであります。
このようにして、智ギ法師(天台大師)は、「一切経の中においては、『法華経第
一・涅槃経第二・華厳経第三』である。」と、見定められたのであります。
そして、智ギ法師(天台大師)は、このように嘆かれました。
「如来の聖教は、漢土(中国)に渡来した。けれども、人々を利益することはない。
却って、一切衆生を、悪道に導びいている。それは、人師の誤りに依るものである。
例えば、国の長である人が、東を西と言い、天を地と言い出したならば、万民は、
そのように心得るものである。
その後に、身分の卑しい者が出来して、『あなた達が云っているところの西は、東
である。あなた達が云っているところの天は、地である。』と、真理を言ったとして
も、用いられることはないであろう。
そして、その国の家来たちは、国の長の心に叶おうとするために、真理を言った人
を讒言して、討伐することであろう。」と。
そのため、智ギ法師(天台大師)は、「如何にすればいいのか。」と、思いました。
けれども、やはり、黙止するべきことではありません。
因って、智ギ法師(天台大師)は、「謗法によって、光宅寺の法雲法師は、地獄に
堕ちた。」と、宣言なされたのであります。
すると、その時、南三・北七の諸師(諸流派の僧侶)は、蜂の如く蜂起して、烏の
如く、烏合してきました。
南三・北七の諸師(諸流派の僧侶)は、智ギ法師(天台大師)に対して、「頭を割
ってしまうべきか、国から追放するべきか。」等と、申していました。
その模様を、陳主(陳の国王)がお聞きになっていました。
そして、南三・北七の諸流派の僧侶・数人を召し合わせた上で、陳主(陳の国王)
御自身も列座されて、それぞれの主張を御聴聞されたのであります。
その場には、法雲法師の弟子たちである、慧栄・法歳・慧コウ・慧ゴウ等という、
僧正・僧都以上の位を有した僧侶が百人以上いました。
彼等は、各々、悪口を言って、眉を上げて、眼を怒らせて、手を上げて、拍子を叩
いていました。
しかしながら、智ギ法師(天台大師)は、末座に坐して、顔色を変えず、言葉を誤
らず、威儀を静かにして、諸の僧侶の発言を一つ一つ書き取り、彼等の発言ごとに、
責め返していきました。
逆に、智ギ法師(天台大師)は、彼等に詰問をなされて、「そもそも、法雲法師の
御義である、『第一華厳経・第二涅槃経・第三法華経』と立てている法門の証文は、
如何なる経典にあるのか。確かで、明らかなる証文を出してみよ。」と、責められま
した。
すると、彼等は、各々、頭をうつ伏せて、顔色を失って、一言の返事もすることが
出来ませんでした。
重ねて、智ギ法師(天台大師)は、このように、彼等を責められました。
「無量義経には、正しく、『次説、方等十二部経・摩訶般若・華厳海空』等と、お
記しになられている。
つまり、仏(釈尊)御自らが、華厳経の名を呼び上げられて、無量義経の中で、『華
厳経は、未顕真実(未だ真実を顕していない教え)である。』と、打ち消されている
のである。
法華経より劣っている無量義経にさえ、華厳経は責められている。
貴殿たちは、如何に心得ることによって、華厳経のことを、『釈尊御一代における、
第一の経典である。』と、言うのか。
貴殿たちが、各々、御師(法雲法師)の味方をしようと思うのなら、この無量義経
の経文を破って、無量義経よりも勝れている経文を取り出して、御師(法雲法師)の
御義を助けてみなさい。
また、涅槃経のことを、『法華経より勝れた経典である。』と言っているのは、
如何なる経文が根拠であるのか。
涅槃経第十四巻(聖行品)においては、華厳経・阿含経・方等経・般若経を挙げら
れて、涅槃経に対する勝劣が説かれている。
けれども、全く、法華経と涅槃経との勝劣は見受けられない。
ましてや、涅槃経第九巻(如来性品)においては、法華経と涅槃経との勝劣が分明
になっている。
所謂、涅槃経の経文においては、『この経(涅槃経)の出世は、(中略)、法華経
の中で、八千の声聞が記別(注、仏が未来世における弟子の成仏を明らかにすること)
を受けたことを得て、大果実を成じた(成仏した)ようなものである。あたかも、秋
の収穫が終わり、冬のために蔵へ入れた後には、更なる所作をする必要がないような
ものである。』等と、仰せになられているではないか。
明らかに、涅槃経の経文においては、爾前経のことを、収穫前の『春・夏』の如
き存在と、位置付けられている。
そして、涅槃経と法華経のことを、『菓実の位』と、お説きになられているのであ
る。
その中でも、法華経のことを、『秋収冬蔵(注、秋に農作物の収穫をして、冬に蔵
へ入れること)の大菓実の位』と、お定めになられている。
そして、涅槃経のことを、『秋の末・冬の始めのクン拾(注、収穫が終わった後の
落ち穂拾いのこと)の位』と、お定めになられている。
この涅槃経の経文においては、『正しく、法華経に対しては、我が身(涅槃経)が
劣る。』と、承伏されている。
また、法華経の経文においては、已説(爾前経)・今説(無量義経)・当説(涅槃
経)と申して、『この法華経は、前と並びとの経々(爾前経・無量義経)に対して勝れ
ているだけでなく、後に説こうとする経(涅槃経)に対しても、勝っている。』と、仏
(釈尊)が定められているのである。
既に、教主釈尊がこのようにお定めになられたのであるから、仏弟子が疑うべき
ことではない。
けれども、『我が滅後(釈尊の御入滅後)は、如何になってしまうのか。』と、教主
釈尊御自身が疑いをお思いになられた故に、東方・宝浄世界の多宝如来を証人に立て
られた。
そして、多宝如来は、大地より踊り出られて、『妙法華経皆是真実』と証明された
のである。
また、十方世界の分身の諸仏も、重ねて、お集まりになられた上で、広く長い御舌
を、大梵天に付けられた。
そして、教主釈尊も、広く長い御舌を、大梵天に付けられたのである。
それから、しばらくした後に、多宝如来は、宝浄世界へお帰りになられた。
十方分身の諸仏は、各々の本国土にお帰りになられた。
その後、多宝如来・十方分身の諸仏が御不在になられてから、教主釈尊が涅槃経を
お説きになられて、仮にも、『涅槃経は、法華経に勝る。』と仰せになったならば、
果たして、教主釈尊の御弟子たちが信用されるのであろうか。」と。
このように、天台大師は、彼等(法雲法師の弟子である、僧正・僧都以上の位を有
した、慧栄・法歳・慧コウ・慧ゴウ等の僧侶)を責められました。
すると、あたかも、日月(太陽と月)の大光明が修羅の眼を照らすように、また、漢
王の剣が諸侯の首に掛かるように、彼等(法雲法師の弟子である、僧正・僧都以上の
位を有した、慧栄・法歳・慧コウ・慧ゴウ等の僧侶)は、両眼を閉じて、頭を垂れた
のであります。
天台大師の御様子は、狐やウサギを前にして、師子王が吼えた姿に似ていました。
また、鷹や鷲が、鳩や雉を責めた姿に似ていました。
このような御様子でありましたので、「さては、法華経は、華厳経・涅槃経よりも
勝れた経典である。」と、震旦(中国)一国に流布するだけでなく、かえって、五天
竺(インド全土)までも評判が聞こえていきました。
そして、天台大師は、「月氏(インド)の大小の諸論も、智者大師(天台大師)の
御義には勝つことが出来ない。教主釈尊が、再度、御出現されたのであろうか。仏教
が二度現れた。」と、賞賛されたのであります。
その後、天台大師は御入滅なされました。
中国では、陳・隋の世も代わって、唐の世となりました。
章安大師も、御入滅なされました。
そして次第に、天台大師の仏法を、習学する氣運が失せていきました。
その頃、唐の太宗皇帝の時代に、玄奘三蔵と云う人が、貞観三年に、始めて月氏(イ
ンド)に入り、貞観十九年に帰国しました。
玄奘三蔵は、月氏(インド)の仏法を尋ね尽くして、法相宗と云う宗義を渡来させ
ました。
この宗派の教義は、天台宗と水火の関係でした。
しかるに、玄奘三蔵は、天台大師が御覧にならなかった、深密経・瑜伽論・唯識論等
を渡来させて、「法華経は、一切経に対しては勝れている。けれども、深密経に対して
は劣っている。」と、言い出しました。
それに対して、天台の末学(天台宗の末流の学僧)たちは、智慧が薄かったが故に、
「天台大師は、それらの経論を御覧になっていなかった。玄奘三蔵の主張はもっともで
ある。」と、思ってしまいました。
また、唐の皇帝の太宗は、賢王でありました。
その上、玄奘三蔵に対する御帰依も、決して、浅くありませんでした。
仏弟子として、言わなければならない事はありました。
けれども、いつの時代であっても同様ですが、時の威(時の国王の権威)を怖れて、
申し上げる人はいなかったのです。
「法華経が最上である。」という立場を覆して、玄奘三蔵どもが『三乗(声聞・縁
覚・菩薩)真実』『一乗(仏)方便』『五性各別』(注、声聞乗性・縁覚乗性・如来
乗性・三乗不定性・無性の“五性”は、各々が別の存在であり、決して変えることの
出来ないものとする法相宗の教義。)と主張した行為は、残念なことであります。
天竺(インド)より渡って来た教義ですが、その実体は、月氏(インド)の外道が、漢
土(中国)に渡って来たのでしょうか。
「法華経は方便の教え、深密経は真実の教え。」と云うのであれば、釈尊・多宝如
来・十方の諸仏の誠言も、かえって虚しくなり、玄奘や慈恩こそ、時の生身の仏とし
て、敬われていたのでしょうか。
その後、中国では、則天皇后の時代になりました。
以前、天台大師によって責められた華厳経に、また重ねて、新訳の華厳経が渡来し
てきました。
すると、かつての憤りを果たそうとするために、新訳の華厳経を以て、天台大師に
責められた旧訳の華厳経を扶助することにより、華厳宗と云う宗派を、法蔵法師と云
う人が立てました。
この宗派は、「華厳経を根本法輪とする。法華経を枝末法輪とする。」と、申して
いました。
また、彼等は、「南三北七の諸宗派の教義は、第一華厳・第二涅槃・第三法華であ
る。天台大師の教義は、第一法華・第二涅槃・第三華厳である。今の華厳宗の教義は、
第一華厳・第二法華・第三涅槃である。」等と、申していました。
その後、玄宗皇帝の時代に、善無畏三蔵は、天竺(インド)より、大日経・蘇悉地
経を渡来させました。
金剛智三蔵は、金剛頂経を渡来させました。
また、金剛智三蔵には、不空三蔵という弟子がいました。
この三人は、月氏(インド)の人であり、家柄も高貴である上、人柄も漢土(中国)
の僧には似ていませんでした。
加えて、彼等が説いた法門も、何とも言いようのない、目新しさがありました。
それは、中国に仏教が伝来した後漢時代より、その当時(唐の時代)に至るまで存
在しなかった、印と真言という法門を新たに添えていたため、威光があるように見え
たからです。
故に、天子は頭を傾けて、万民は掌を合わせました。
これらの人々(善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵)は、下記の義を主張しました。
「華厳経・深密経・般若経・涅槃経・法華経等の勝劣は、所詮、顕教の枠内のこと
であり、釈迦如来の唱えた説の分を超えない。
今の大日経等の経典は、密教であり、大日法王の勅言である。
華厳経・深密経・般若経・涅槃経・法華経等々は、民の万言である。
けれども、この大日経は、天子の一言である。
華厳経・涅槃経等を大日経と比較すれば、梯子を立てたとしても、及ぶものではな
い。
ただ、法華経だけが、大日経に相似した経典であろう。
けれども、法華経は、釈迦如来の説法であり、民の正言の如きものである。
この経(大日経)は、天子の正言の如きものである。
言葉は似たようなものであるが、それを発する人柄には、天地雲泥の違いがある。
譬えると、濁水に映った月と、清水に映った月ぐらいの違いがある。
月の影は同じかも知れないが、水には、清濁の違いがある。」と。
これらのことを、善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵は申していました。
ところが、その根拠を、尋ね顕す人もおりません。
そのため、諸宗は、皆、落ち伏して、真言宗に傾倒していきました。
そして、善無畏三蔵・金剛智三蔵死去の後、不空三蔵が、また月氏(インド)に戻
って、『菩提心論』という論を渡来させたため、いよいよ真言宗の勢力が盛んになっ
ていきました。
ただし、妙楽大師という方がいらっしゃいました。
天台大師御在世から、二百余年後に、御生誕された方です。
妙楽大師は智慧が賢い人であった上に、天台大師の論釈を見極められておられたの
で、このようにお考えになっていました。
「天台大師の論釈の御心は、『天台大師御入滅後に渡来してきた、深密経・法相宗、
また漢土(中国)において、一宗として立てられた華厳宗、そして大日経・真言宗よ
りも、法華経は勝れた経典である。』ということである。
にもかかわらず、或いは智慧が及ばないためか、或いは人を畏れているのか、或い
は時の国王の威を恐れているのか。
それらの故に、仏法の真理を云わないようである。
このような有様では、天台大師の正義が失われてしまうであろう。」と。
また、妙楽大師は、「法相宗と華厳宗と真言宗の邪義は、中国の陳・隋時代に存在
した、南三・北七の諸流派の邪義にも勝っている。」と、お思いになっていました。
それ故に、妙楽大師は、三十巻の注釈書をお造りになりました。
所謂、『摩訶止観弘決十巻』・『法華玄義釈籤十巻』・『法華文句記十巻』のことです。
これらの三十巻の文(摩訶止観弘決十巻・法華玄義釈籤十巻・法華文句記十巻)は、
本書(天台大師三大部→摩訶止観・法華玄義・法華文句)の重複している箇所を削り、
不足分を加筆するだけでなく、天台大師の御在世には存在しなかった邪義の故に、天
台大師からの御責めを免れたようにも見受けられる、法相宗と華厳宗と真言宗を、一
時に破折された書物であります。
また、日本国においては、人王第三十代・欽明天皇の時代である、欽明十三年〈壬
申〉十月十三日に、百済国(朝鮮)より、一切経と釈迦仏の像が渡来してきました。
また、用明天皇の時代には、聖徳太子が仏法を読み始められて、和氣妹子という臣
下を漢土(中国)に派遣されました。
そして、聖徳太子が過去世で所持されていた、一巻の法華経を取り寄せられて、持
経と定められました。
その後、人王第三十七代・孝徳天皇の時代には、三論宗・華厳宗・法相宗・倶舎宗・
成実宗が渡来してきました。
人王第四十五代・聖武天皇の時代には、律宗が渡来してきました。
それらを合わせると、六宗となります。
人王第三十七代・孝徳天皇から人王第五十代・桓武天皇の時代に至るまで、十四代・
百二十余年の間、天台・真言の二宗は、日本に存在しなかったのであります。