釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~ -7ページ目

大乗はインチキだと思う人にお勧め『仏と浄土』(シリーズ大乗仏教5)

今月出たばかりの『シリーズ大乗仏教5 仏と浄土』(春秋社)を読んでいる。
まだ1章(下田正弘先生)と、2章(新田智通先生)の途中までだけど、
めちゃくちゃ面白ーい! 春秋社さんありがとう!


「人間・ブッダを、弟子たちがだんだん神格化して、
挙句に大乗仏教の人がいろいろデッチあげた」という仏教史観を
持っている人には一読をお勧めしたい。
ていうか、これはつい最近までの私だ。
このブログもそういうことがいっぱい書いてある。


こういう近代的仏教観に、下田先生は常々激怒しておられるが、
この本の1章にもそれがほとばしっている。

2章は、直接的に「人間・ブッダの神格化」説に疑問を呈している。
まず最初にあげられているのが、中村元先生への疑問!


仏教ファンなら必ず読むであろう、中村元先生訳の
『ブッダの言葉(スッタニパータ)』(岩波文庫)をはじめ、
中村元先生の解説には「これは後代にブッダを神格化したものである」
といったフレーズがよく出て来る。


でも、そこに根拠はない、というのです。
たとえば、お釈迦さまが「ゴータマ」「きみよ」「聖者」などと
呼ばれているのが古層で、「超神」「神々の神」などと呼ばれるのが新層、
と中村先生は言っているけど、古い・新しいの文献学的根拠はない、と。


現在でも、初期仏典から「神話的なところを取り除いて、
人間・ブッダを復元しよう」と苦心している研究者はたくさんいるそうです。
でも、結局は、研究者が恣意的に、
現実っぽいところは「人間・ブッダ」で、
スーパーマンぽいところは「神格化」とみなしているに過ぎない、と。


「純粋に『人間仏陀』の伝記は、現在としては再現不可能である。
仏陀の事績はすべて神話的に色づけられているからである」という
平川彰先生の言葉が引用されていた。


たしかに、初期仏典だって普通に読めば、神話的なところだらけだ。
私も、「ここは作り話だな」と勝手に仕分けしてしまう癖がある。
多くの仏教ファンは、まず岩波文庫の中村元訳と註を読むだろうから、
最初に”神話化説”が刷り込まれるのかもしれない。


なんかね、仏教学者の本を読んでると、中村元という名前がちっとも
出てこないんですよ。(よく出てくるのは平川彰先生)
中村先生は偉大な業績をリスペクトされながらも、今の仏教学から見たら
微妙なんだろうな、と薄々感じていたら、そのとおりでした。


私は今でも、初期仏教徒というか阿含経典にしか感動できないけれども、
だからこそ、仏教全体の中でお釈迦さまのことをちゃんとわかりたい。
下田先生や新田先生が言ってるのは、
「先入観を抜きにして、ちゃんと仏典読め」ってことだと思う。


釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~



仏と浄土: 大乗仏典II (シリーズ大乗仏教) にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村

なんで人は「真理」が好きなのか

禅僧・南直哉さんの講座「仏教私流」を拝聴してきた。
今回のテーマは、あまり評判のよろしくない(?)天台本覚思想。


いや~~、いつも面白いけど、今回はますます面白かった。
南さんは、本当に頭のいい人だと思った。

一番覚えておきたいところだけを、ちょこっとメモします。
(自分流メモなので、間違いがあっても南さんのせいじゃありません)


「何かがもともと『ある』ってのはおかしくないか?
『ない』ってところから(仏教は)始まったんじゃないのか?」

これは、南さんが口を酸っぱくして常々言ってることで、
私も積年の疑問だった。


何かしらの「本質」があって、それが現象している…。
たとえば、こんな感じだ。
「みなさん、本来は仏なんです。
でも今は煩悩によって覆われているから、それが見えないだけ。
煩悩という汚れを取り払えば、本来の仏性が現われてくるんです」


こういう考えの是非は置いておいて、
人類がとっても好きな思考の枠組みなのだろう。
現象はバラバラに見えるけど、そこには何か確固たる

「本質」とか「真理」が隠れている、という枠組みが。


仏教前ならブラフマン、アートマンとか、
仏教なら五位七十五法、仏性・如来蔵、世界そのものとしての大日如来とか、
洋モノならプラトンのイデア、プロティノスの一者とか、
現代でいえば「本当の自分」とか、

すべての物理現象を記述できる”神の数式”とか。
「本質ー現象」の二元論、というやつだ。


不変の「本質」(もともと・本来・真理・根源、みたいなもの)が「ある」。
・その本質が、現象を作り出す。
・または、現象に実は本質が入ってる。
というような思考方法が、人類にとって落ち着きがいいから、
古今東西の思想や宗教に繰り返し登場する。


問題は、なんで人間はこういう枠組みがしっくり来るか?ということだ。
南さんの分析は目からウロコが落ちた。


その理由は、「人は言葉を使って考えるしかないから」。
「本質ー現象」は、言葉の構造そのものだというのだ。


ていうのは、「言葉は固有物を指さない」。
たとえば、いま目の前にある物を「茶碗」と呼ぶ。
でも、何十万個も違うものがあって、それにいちいち言葉を当てずに、
ひっくるめて「茶碗」と呼ぶわけですよ。
「茶碗」という「本質」があって、
青や赤や大きいのや小さいのやバラバラの「現象」がある。

そういう「言葉」を使って考えている以上、
「本質ー現象」という枠組みがしっくりくるのは当たり前だ、と。


この南さんの説明には、すごく納得しましたね。


「無常」とか「縁起」とか「空」というアイデアが、
「何ひとつ、本質みたいな不変の核はない」という世界観なら、
言葉で考える人間にとって猛烈にしっくりこない話であって、
だから驚異的に素晴らしい。


と同時に、仏教にはひっきりなしに何か「ある」ものが入ってきた

(いや最初っから民衆の信仰ではそうだったと思う)。

そうでなければクラッシュしていた、
仏教がこれだけ広がって生き延びることはできなかった、
という現実もあるんじゃないかなあ、と思ったりもしました


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村

南無阿弥陀仏にリアリティを感じる?

南無阿弥陀仏と唱えるだけで往生できる、と言われたって、
私たち現代人にとっては、リアリティを感じられなくないですか?


あるお坊さん(浄土系でない人)が言ってたんだけど、
「本当にそれを心底信じているのか?」と浄土宗・真宗のお坊さんに聞いても、
納得のいくことを「自分の言葉で」答えてくれた人は
いまだかつて1人もいない、と。
「自分の言葉で」ってところが大事ですよね。


前に知恩院(浄土宗総本山)でお坊さんの説教を聞いたことがあって、
そのときも「みんな死ぬんだから、お念仏を唱えて、
ご機嫌に生きたほうがいいじゃないですか」みたいな話をされてて、
けっこう苦しいものがあるなー、と思った。


とはいえ、ある時代には南無阿弥陀仏にすごくリアリティがあったはずで、
法然さんはたぶん心底信じていた(?)はずで、
それはなぜ信じられたのか、ということに興味がある。

以下は『浄土思想論』(著:末木文美士先生、春秋社)のメモで
ただの自分用メモなので読んでもつまりません。


============================

◆空と浄土教の出発点はまったく違う。
それを結びつける方向のものに「般舟三昧経」がある。


◆「般舟三昧経 はんじゅざんまいきょう」
7日間、不眠不休で阿弥陀仏を念じると、
 阿弥陀仏と一切の諸仏が目の前に現われる。
 空であるからこそ、遥か遠方にいる阿弥陀が目の前に現われる。

この修行法は中国で慧遠(えおん、334-416)が採用し、
天台智顗の四種三昧の一つである常行三昧になる。

日本では、この常行三昧を円仁(794-864)が比叡山に取り入れたのが
念仏の最初とされる。

これをさらに体系化したのが「観無量寿経」などの観仏経典。
「般舟三昧経」では三昧の中で仏が現われる「見仏」だったのが、
観仏経典でははっきりと手順を踏んで仏を観る。


「観無量寿経」下品段の称名念仏
=たとえば下品下生(五逆十悪を犯したなど一番下の人)が
なにも修行とかしていなくても、死ぬ直前に南無阿弥陀仏と称するだけで
念々中において罪を除かれて往生できる。


一方、日本では…


◆平安時代の院政期に『歓心略要集(かんじんりゃくようしゅう)』が書かれる。
阿弥陀の名前を念じることで、オノレの心を観じる。
というのは、
「阿・弥・陀」の3文字を、「空・仮・中」(天台の根本真理)に対応させる、
という一種の”こじつけ”。
これによって、阿弥陀の名を念じることは、
我々の心の根本真理を観ずることになる(念仏が歓心に結びつく)。


◆法然の『選択本願念仏集』3章で、称名念仏で往生できる理由が書いてある。
・難易義…誰でもできる簡単な行
     阿弥陀はあらゆる人を救うために簡単な行を選ばねばならない
・勝劣義…他の行より優れている。
     阿弥陀という名前の中にすべての功徳が含まれている。
     (『歓心略要集』の影響を受けている?)
 
「聖意測り難し、たやすく解することあたわず」
(阿弥陀が名号に功徳をこめた理由は、我々凡夫にはわからない)



にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村