観音菩薩もイヤ気がさしたりするらしい
みなさんもお馴染みの千手観音。
これについて、『新アジア仏教史09』(佼成出版)チベットの巻に、気になることが書いてあった。なんであの菩薩は、ちょっとグロテスクなぐらいの千手で十一面になったのか。
こないだ参拝したばっかの唐招提寺千手観音像。
サキャ派の年代記である『王統明示鏡』(14世紀)の要約として紹介されているものだ。いわく――
観音菩薩が、阿弥陀仏の前で、
「私は三界の有情の全てを幸福にしたいと思う。(中略)有情たちを輪廻から逃れさせるまでは、私は一瞬たりとも自分の幸福は考えない。
もしそのような考えが起きたならば、私のこの頭はアルヅァカの花のように十に砕け、この身は蓮華の花のように千々に砕けんことを」
で、観音菩薩は、ラサの丘の頂きから下を見下ろしたら無間地獄で、さまざまざまな手段を通じて安楽にさせた。すごく疲れて瞑想して休み、起き上がって下を見下ろしたら、まだ100分の1も幸せになっていなかった。
それで観音の心は暗く沈み、一瞬だけ自分の幸福を思う気持ちが起きた。
すると、古の誓いによって、観音の頭は十に砕け、身は千々に砕け散った。
それを観じた阿弥陀仏が現われ、
「一族の子よ、苦しまなくてもよい」と言って、「あなたの十に砕けた頭を十の顔につくって祝福した。その上に私の頭をのせ、十一面として祝福した」。
「千に砕け散ったあなたの体は、千本の手となして祝福した」。
こんなエピソード、知ってました?
チベット流の解釈かと思ったら、同書によると
「この歴史神話は、実は『千手千眼観音菩薩経』の内容とほぼ同じであるが」と書いてある。このお経は、千手観音の典拠文献ですよね?だったらチベットだけの伝承とかではなく、千手観音の由来ですよね?
(詳しい方いたら、教えてください)
このお経が近くにないので悔しいのだが、千手観音のこのエピソードは初耳だ。
今まで何度、いろいろな千手観音を参拝したかわからないが、だいたいこういう説明がされていた---あらゆる衆生も漏らさず観て救済するために、多くの顔と手を持っている、って。
結果的にはそうなんだけど、先のお経によると、いくら救ってもキリがないんで、観音が疲れ果てて一瞬イヤ気がさしたのが発端で、ああいう姿になったことになる。
観音さんでも、「もうイヤ!」とか思うんだ?
今まで読んだ仏像の本にも、そんなこと書いてなかったように思う。
でも、これで私は千手観音がいっぺんで好きになった。
「衆生を救うために千手に…」という悟りすました理由より、「一瞬イヤ気がさして砕け散った」あげくのほうが愛おしい。
『千手千眼観音菩薩経』を読んだ人、いませんか?

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チベット仏教への(私の)偏見と、中松&苫米地のインチキ疑惑
チベット仏教について、初めて勉強している。
『新アジア仏教史09 チベット 須弥山の仏教世界』(佼成出版)を読みつつ、
朝日カルチャーでの斎藤明先生の仏教史講座もちょうどチベット仏教に突入したので、
これで基礎はわかるかも、と安直に構えている。
チベット仏教について何にも知らなかったので、新鮮だ。
実は今まで、チベット仏教に対して、ちょいと偏見を持っていた。
後期密教の「無上瑜伽タントラ」=エロい黒魔術みたいな印象があって、前に行ったポタラ宮の美術展もエロエロで呪術的だったし、
これは仏教としてどういうものなのか、よくわからなかった。
でも、今のチベット仏教の主流であるゲルク派なんかも、
すっごいスクエアに学問するんですってね。
斎藤先生の講義資料によると、チベットの僧院での学習内容は
(大正期にチベットで10年間修行した多田等観著
『チベット』岩波新書による?)
<5教科13階級>
・ 仏教論理学3年(3学級)ダルマキールティ『認識手段評釈』
・ 般若学4年(5学級)ハリバドラ『現観荘厳注』
・ 中観学 4年(2学級)チュアンドラキールティ『入中論』
・ 戒律学 4年(2学級)グタプラバ『律経』
・ 倶舎学 4年(1学級)ヴェスバンドゥ『倶舎論』
要するに、経より論書を中心に、20年ぐらいゴリゴリに勉強するらしい。
それで得られる階位の一番上が、ラマ(上人=アーチャリヤ=阿闍梨)。
そこでふと思いだすのが、ドクター中松と苫米地英人の1件です。
2010年に、ドクター中松と苫米地がチベットに行って、
何の修行もしてないのにゲルク派のトップであるガンデン・ティパ師から「阿闍梨」の称号をもらった、と公言し、
中松はそれをウリに幸福実現党から参院選に出たんですね。
称号をカネで買ったんだろうな、チベット独立資金のために阿闍梨を売ってるんだろうな、と私は哀しい気持ちにあり、それもチベット仏教への偏見につながっていた。
ところが、今回調べてみたら、どうも中松&苫米地の言うことはインチキだ、という説がある。
ダライ・ラマ法王日本代表部事務所が、ガンデン座主からの文書として、「そんな称号は授けてない」と公式に発表してるのです。
また、苫米地を含むと思われる「複数の日本人に阿闍梨を授与した事実はない」という発表もされています。
http://www.tibethouse.jp/news_release/2010/100730_gaden.html
http://www.tibethouse.jp/news_release/2010/100928_warning.html
なんなんだよー!
(チベット側の言い分が正しいならば)中松&苫米地は、見るからにうさんくさい人が本当にうさんくさかった、というだけの話なんだが、幸福実現党は特に関知してませんという態度だし、苫米地の本は相変わらず読む人がいるしサイゾーのオーナーだし。
ともあれ、チベット仏教についての偏見は、私の誤りだったようです。ごめんなさい。

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穢土・浄土と一切衆生の救済/SFアクション『エリジウム』
こないだ見たのが公開中の『エリジウム』。
真面目な人が多い仏教ファンが顔をしかめるSFアクションであります。
<ストーリー>===========================
舞台は2154年、人類は二分化されていた。エリジウムと呼ばれる、汚れ無き人造
スペースコロニーに住む富裕層と、人口過剰で荒廃した地球に住む貧困層とに。
地球の住民は、蔓延する犯罪と貧困から逃れようと必死だった。
この二極化した世界の平和の架け橋となる唯一の人物、それはマックス(マット・
デイモン)だ。平凡な彼には、エリジウムになんとしても行かねばならない理由
があった。
不安定な状態の中、デラコート長官(ジョディ・フォスター)と強硬な軍隊に立
ち向かうという危険な任務を彼は仕方なく受け入れる。
自分の命はもとより、地球上の全人類の未来のために!
===================================
ここで描かれる地球が、地獄というか穢土というか末法というか、
とにかく悲惨なのです。
一方、スペースコロニー「エリジウム」は、
光と幸福に溢れて、どんな病気も一瞬で治る、浄土みたいなところ。
でも恐ろしいことに、これは現在の世界そのものなのです。
私たち日本人や先進欧米諸国では、
富裕層でなくても、蛇口をひねれば安全な水が出るし、エアコンはあるし、
高度な医療も受けられます。
で、うちらがこうやって暢気にパソコンを見てるこの瞬間にも、
世界では、汚い水で病気に感染してバタバタ死んでいく子供や、
ゴミの山をあさって生きる家族や、奴隷みたいな工場労働をしてる人もいる。
そっちのほうが多い。
『エリジウム』の監督は、ひょんなことからメキスコのスラム街に行き、
そこからアメリカの高級住宅地を観たときに、この映画を思いついたそうです。
で、映画では、とある方法で一切衆生の救済が図られるのですが、
ちょっと涙が出てしまいました。
そう考えると、日本なんかは、極楽浄土みたいなもんだなあ。
いや、浄土ってのは、もっと精神的にピースフルな場所であって…
というご意見もありましょうが、
お経を読むと、けっこう物質的なリッチなぶりも描かれています。
いつの時代も人は「エリジウム」を夢見るのでしょうか…。
「常に葉があり、常に花があり、常に果実があり、幾百千の色があり、
月のごとくに光り照らす珠宝で明らかに輝きわたり、
その美しさは天のものを超え、黄金の糸を垂らし、
あらゆる宝石の網や、鈴のついた網でたわんでいる」
(無量寿経 岩波文庫)
地には花や果実があふれ、蚊・蛇・虎のような悪獣がいない。
種をまかなくても自然に米が実り、釜の下に置くと自然に飯が炊け、
果実の中には器や楽器や衣服があって、
しかも樹が自然に体を曲げて取りやすいようにしてくれる。
衣服などいくらでもあるから、誰の所有物などと気にせず
好きなだけ使える。
(漢訳・長阿含「世記経」
第二品「鬱単曰(うつたんわつ)品」)

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