なにやら楽しそうな中国浄土教
ポツポツとしか読む時間がないのだけど、『新アジア仏教史07 中国Ⅱ隋唐』(佼成出版社)の続きを読んだ。
(下は4章「民衆仏教の系譜」のなかの「民衆仏教としての浄土教の展開」)
浄土教というと、南無阿弥陀仏と唱えれば来世は西方浄土、というのだから、どう考えても民衆ウケがよかったでしょう。
でも思っていた以上に、民衆民衆していたみたい。
弥陀の十八願とか、難しい話はすっとばして「念仏=まじない」だったという話もある。
特に面白かったのが、
法照の「浄土楽讃」には、一句ごとに「浄土楽」という「合いの手」が挿入されていて、「よいしょ」「どっこいしょ」みたいなものだったんですって。すごい盛り上がったんでしょうねー。
コール&レスポンスとは違うけど、よく映画に出て来る黒人教会のイメージが・・・。
たくさんの人が集まって、トランス状態で唱えたのかなあ。
レイブみたいなものだったのかなあ。
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(以下は自分用メモ)
・ 中国浄土教の祖とされる慧遠(えおん、334-416)。念仏結社「白蓮社」をつくったとされる。でも「高僧伝」によると山にこもって30余年下りてこなかったとか。唐中期→宋時代に、中国浄土教の祖にまつりあげられた。
・ 南北朝時代の造像碑をみると、浄土教信仰を示す銘文は無量寿像(阿弥陀)に付されることは意外に少なく、釈迦像や弥勒像に記されることが多い。阿弥陀仏による救済よりも、祖先供養・立身出世・来世で王侯長者に生まれるなど、現世利益的なものが多い。
・ 南北朝末期(6世紀)には、造阿弥陀仏像・願生西方が揃って現われる(「観無量寿経」の影響?)
・ 道綽(どうしゃく 562-645)
民衆に人気があったっぽい。道綽の著書『安楽集』第二大門の終わりに、念仏は禁呪(まじない)に等しいと述べている。たとえば犬に噛まれたら虎の骨を火に炙ってこすればいいが、虎の骨がなければ「虎が来る!」と連呼すればいい。阿弥陀仏の名を呼ぶのもこれと同じ、と説いていた。(法蔵菩薩の説話に拠ることなく、民間療法の伝承をかりて説く)
「数量念仏」(念仏の数を数えるために身の回りにある豆を使う)を勧めた
・善導
著作がみな儀礼に関するもの。『観経疏』(観無量寿経の注疏)も口語っぽく、民衆への講説と想定できる。賛偈の韻の踏み方が音楽的。
・法照(746-838)
善導が創作した挿句を取り入れた、法照の「浄土楽讃」。一句ごとに「浄土楽」の文字が挿入されている。ほかにも「我浄楽」や「帰去来」など多数ある。
一種の「合いの手」で、「よいしょ」「どっこいしょ」みたいなもの。
はからずも仏教だった松尾スズキの人生相談(『人生に座右の銘はいらない』)
劇団「大人計画」を創った人です。
その松尾さんが「50年間に舐めたすべての辛酸を根拠に」、ひとびとの悩みに答える人生相談本『人生に座右の銘はいらない』(朝日新聞出版)が面白かったです。
いきなり「あとがき」を紹介するとー。
「産まれた瞬間にもし喋れたとして、その記憶が僕にあったとしたら、その言葉は僕だったら
『大変なトラブルに巻き込まれた!』
だろう。(中略)
いつも一方的に『世間』という漠とした、いや、漠なんて生易しいもんじゃないな、明らかに危険をはらんだ世界の中に無理やり『取り出される』のである」。
これって、禅僧・南直哉さんがいつもいつも言っていることと全く同じ。私はたまたま縁起的にここにいるだけで、根拠も意義もないし、世界は自分の思い通りになんかならない。あらかじめそうなのだ。苦諦ってそういうことじゃない?
たとえば「生きる目的や意義が見出せません」という相談に対
する松尾さんの答えは、
「命は長すぎます。敵は退屈です。人生とは死に物狂いでヒマ
をつぶすことです」。まったく同感です。
それから、「人間の不幸は、出かけずにいられないことだ、と思っています。(中略)ようするに、必要であれば動けばいいのです。必要以上に動くから痛い目にあうのです」(同書80ページ)。
これには驚いた。並行して読んでいた禅僧・藤田一照さんの坐禅の本に、同じことが書いてあったから。
「人間の不幸というものは、みなただ一つのこと、すなわち部屋の中で静かに休んでいられないことから起こるのだということである」(パスカル『パンセ』)
で、パスカル青年だった藤田さんは、部屋で静かに休む「まった
き休息」としての坐禅、夢や目標に向って駆り立てられたりしない
「くつろぎ」が坐禅の本質だといいます。
松尾さんは、“夢は必ず叶う”みたいなトッポいことは言わず、オノレの苦しみを笑いものにしながら、なんとか生きていくすべを答えています。
松尾さんが仏教に関心があるかどうかわかりませんが、
ヘタな坊さんの本より、根が仏教だと思いました。
しかも笑えます。
坐禅のつもりで坐禅になってない(『現在坐禅講義』)
藤田一照さんという曹洞宗のお坊さんを知っているでしょうか?
長くアメリカで坐禅指導をしてきた方です。
私も名前は知っていたぐらいで、ちゃんと本を読んだことはなかった。
それが、こないだ南直哉さんが、
「藤田一照さんの『現代坐禅講座ー只管打坐への道』(2012年)は
すごくいい本です。
坐禅について、ごまかさずにあれだけギリギリまで言語で迫った本は
めずらしい」と言ってたんですね。
まず他人を褒めることがない南さんが、ですよ。
それで、さっそくその本を買ってみた。
まだこれから読むんだけど、500ページ近い大著で、かなり面白そう。
3刷までいってる。立派だなあ。
この本の帯文が挑発的で
「坐禅のつもりで坐禅になっていない坐禅がある。
この本の読者には、そんなことはさせられない」。
高校時代の愛読書がパスカルの『パンセ』だったそうで
(なんちゅう高校生だ)、
そのパスカルに話しかけるつもりで坐禅の講義をした、と書いてあります。
でね、その藤田さんは朝日カルチャーセンターでも教えてて、
9月12,19日に新宿校で講義があるんです。
12日が坐禅の稽古で、19日がお話。
呼吸に焦点をあてるそうですが、
正しい坐禅には「呼吸法のニュアンスは微塵もない」と。
行きたいな~~~~~。でもその週は忙しくて無理かも・・・。
早く定年退職したいな~~~。
ぼやけてますが、チラシはこれです。