南無阿弥陀仏にリアリティを感じる?
南無阿弥陀仏と唱えるだけで往生できる、と言われたって、
私たち現代人にとっては、リアリティを感じられなくないですか?
あるお坊さん(浄土系でない人)が言ってたんだけど、
「本当にそれを心底信じているのか?」と浄土宗・真宗のお坊さんに聞いても、
納得のいくことを「自分の言葉で」答えてくれた人は
いまだかつて1人もいない、と。
「自分の言葉で」ってところが大事ですよね。
前に知恩院(浄土宗総本山)でお坊さんの説教を聞いたことがあって、
そのときも「みんな死ぬんだから、お念仏を唱えて、
ご機嫌に生きたほうがいいじゃないですか」みたいな話をされてて、
けっこう苦しいものがあるなー、と思った。
とはいえ、ある時代には南無阿弥陀仏にすごくリアリティがあったはずで、
法然さんはたぶん心底信じていた(?)はずで、
それはなぜ信じられたのか、ということに興味がある。
以下は『浄土思想論』(著:末木文美士先生、春秋社)のメモで
ただの自分用メモなので読んでもつまりません。
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◆空と浄土教の出発点はまったく違う。
それを結びつける方向のものに「般舟三昧経」がある。
◆「般舟三昧経 はんじゅざんまいきょう」
7日間、不眠不休で阿弥陀仏を念じると、
阿弥陀仏と一切の諸仏が目の前に現われる。
空であるからこそ、遥か遠方にいる阿弥陀が目の前に現われる。
この修行法は中国で慧遠(えおん、334-416)が採用し、
天台智顗の四種三昧の一つである常行三昧になる。
日本では、この常行三昧を円仁(794-864)が比叡山に取り入れたのが
念仏の最初とされる。
これをさらに体系化したのが「観無量寿経」などの観仏経典。
「般舟三昧経」では三昧の中で仏が現われる「見仏」だったのが、
観仏経典でははっきりと手順を踏んで仏を観る。
「観無量寿経」下品段の称名念仏
=たとえば下品下生(五逆十悪を犯したなど一番下の人)が
なにも修行とかしていなくても、死ぬ直前に南無阿弥陀仏と称するだけで
念々中において罪を除かれて往生できる。
一方、日本では…
◆平安時代の院政期に『歓心略要集(かんじんりゃくようしゅう)』が書かれる。
阿弥陀の名前を念じることで、オノレの心を観じる。
というのは、
「阿・弥・陀」の3文字を、「空・仮・中」(天台の根本真理)に対応させる、
という一種の”こじつけ”。
これによって、阿弥陀の名を念じることは、
我々の心の根本真理を観ずることになる(念仏が歓心に結びつく)。
◆法然の『選択本願念仏集』3章で、称名念仏で往生できる理由が書いてある。
・難易義…誰でもできる簡単な行
阿弥陀はあらゆる人を救うために簡単な行を選ばねばならない
・勝劣義…他の行より優れている。
阿弥陀という名前の中にすべての功徳が含まれている。
(『歓心略要集』の影響を受けている?)
「聖意測り難し、たやすく解することあたわず」
(阿弥陀が名号に功徳をこめた理由は、我々凡夫にはわからない)

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