なんで人は「真理」が好きなのか | 釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

なんで人は「真理」が好きなのか

禅僧・南直哉さんの講座「仏教私流」を拝聴してきた。
今回のテーマは、あまり評判のよろしくない(?)天台本覚思想。


いや~~、いつも面白いけど、今回はますます面白かった。
南さんは、本当に頭のいい人だと思った。

一番覚えておきたいところだけを、ちょこっとメモします。
(自分流メモなので、間違いがあっても南さんのせいじゃありません)


「何かがもともと『ある』ってのはおかしくないか?
『ない』ってところから(仏教は)始まったんじゃないのか?」

これは、南さんが口を酸っぱくして常々言ってることで、
私も積年の疑問だった。


何かしらの「本質」があって、それが現象している…。
たとえば、こんな感じだ。
「みなさん、本来は仏なんです。
でも今は煩悩によって覆われているから、それが見えないだけ。
煩悩という汚れを取り払えば、本来の仏性が現われてくるんです」


こういう考えの是非は置いておいて、
人類がとっても好きな思考の枠組みなのだろう。
現象はバラバラに見えるけど、そこには何か確固たる

「本質」とか「真理」が隠れている、という枠組みが。


仏教前ならブラフマン、アートマンとか、
仏教なら五位七十五法、仏性・如来蔵、世界そのものとしての大日如来とか、
洋モノならプラトンのイデア、プロティノスの一者とか、
現代でいえば「本当の自分」とか、

すべての物理現象を記述できる”神の数式”とか。
「本質ー現象」の二元論、というやつだ。


不変の「本質」(もともと・本来・真理・根源、みたいなもの)が「ある」。
・その本質が、現象を作り出す。
・または、現象に実は本質が入ってる。
というような思考方法が、人類にとって落ち着きがいいから、
古今東西の思想や宗教に繰り返し登場する。


問題は、なんで人間はこういう枠組みがしっくり来るか?ということだ。
南さんの分析は目からウロコが落ちた。


その理由は、「人は言葉を使って考えるしかないから」。
「本質ー現象」は、言葉の構造そのものだというのだ。


ていうのは、「言葉は固有物を指さない」。
たとえば、いま目の前にある物を「茶碗」と呼ぶ。
でも、何十万個も違うものがあって、それにいちいち言葉を当てずに、
ひっくるめて「茶碗」と呼ぶわけですよ。
「茶碗」という「本質」があって、
青や赤や大きいのや小さいのやバラバラの「現象」がある。

そういう「言葉」を使って考えている以上、
「本質ー現象」という枠組みがしっくりくるのは当たり前だ、と。


この南さんの説明には、すごく納得しましたね。


「無常」とか「縁起」とか「空」というアイデアが、
「何ひとつ、本質みたいな不変の核はない」という世界観なら、
言葉で考える人間にとって猛烈にしっくりこない話であって、
だから驚異的に素晴らしい。


と同時に、仏教にはひっきりなしに何か「ある」ものが入ってきた

(いや最初っから民衆の信仰ではそうだったと思う)。

そうでなければクラッシュしていた、
仏教がこれだけ広がって生き延びることはできなかった、
という現実もあるんじゃないかなあ、と思ったりもしました


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村