無我と非我のあいだ(「仏教かく始まりき」)
今頃?という感じだが、7年も前に出た本、
『仏教かく始まりき―パーリ仏典『大品』を読む』
(宮元啓一著、春秋社)を読んだ。
出た当時に読んでよくわからなかったのが、読み返してみたら、
これはなかなかお得な1冊だと思った。
現代語訳が出ている初期仏典(パーリ語の仏典)は「経」なのだが、
この本は「律」の中の「大品」の現代語訳+詳しい解説。
この「大品」の最初のほうに、お釈迦さまの基本的な教えや
仏伝(成道から教団が一定の大きさになるまで)が書かれているため、
入門書として一通りのことがわかる。
中級仏教ファンにとっても興味深いのは、
まず、一般にもっとも読まれている中村元先生の
文献学的な方法について批判している点。
この批判が正しいのかどうか私にはわからないが
へーそうなのか、と発見があった。
それから、一般に仏教の基本テーゼとされている「無我」は間違いで、
「非我」が正しい、と著者が主張している点。
http://ameblo.jp/nibbaana/entry-11213948319.html
私はそこが知りたくて読んだ。
前のブログでは、「無我のほうが面白い」とか書いたけれど、
この本を読んだら「やっぱり非我かもしんない」という気になり、
読むたびに影響されるオノレの浅はかさに呆れた。
その他の点でも、宮元先生ならではのスタンスで書かれていて、
納得できないところもある。
けれども、そもそも初期仏教って一体何を説いてるの?という
全体像を知るには、良い1冊ではないかと思った。
(いきなり中村元先生の岩波文庫版というのは、
けっこう途方に暮れてしまったりするので)
しかし、初期仏典の基本タームひとつとっても、
仏教学者のなかでいろいろな意見があって、
素人としては「どの先生を信じるか?」という賭けの世界だなあ。
あと、お釈迦さまより100年以上前のインドの哲学者
ヤージュニャヴァルキヤという人を知って、興味がわいた。
(初期ウパニシャッドに登場する人)
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世界のいかなるものも自己ではない、自己は認識主体として
世界の外にあるから、自己を知ったり捉えたりすることは
原理的に不可能だと、人類で初めて言ったのも、
このヤージュニャヴァルキヤです。
ゴータマ・ブッダは、この、自己は世界外存在であって
知ることが不可能であり、世界の何がしかを自己だと見るのは
最悪の錯誤だとしたヤージュニャヴァルキヤの説を、
もっともみずからの実存に引きつけて、五蘊非我ということを
強調しました。 (同書より)
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小林秀雄から中沢新一までボロクソ(『批判仏教』袴谷憲昭著)
たまたま通りがかった古本屋さんに
『批判仏教』(袴谷憲昭著、大蔵出版、1990年)があったので、
買って読んでみた。
この当時、駒沢大学の袴谷先生と松本史朗先生が論議を巻き起こしたのは知っていたので、そのうち読んでみようと思っていたのだった。結局、お2人の宣戦布告は、スルーされたのか、潰されたのか、継承されたのか、よく知らないけれども。
『批判仏教』、すごかったですね。
梅原猛、和辻哲郎、小林秀雄、川端康成から山折哲雄、中沢新一まで、ぶった斬り。
<あんたらが言っている仏教(≒日本でウケている主流の仏教)なんか、ぜんぜん仏教じゃない!>と激烈批判して、気持ちいいぐらい。
といっても、袴谷さんご本人がもっとも血みどろになっている感じだった。
もっとも激しく攻撃しているのが、
「本覚思想」という、”ありのままでいいんだよ教”。
これは中国の老荘思想で土着化した仏教が、日本に入ってきてさらに土着化したもので、「正しい仏教」とは真逆だという。たしかに初期仏典では、ありのままじゃいけないから修行しろ修行しろ、とひたすら書いているから、普通に考えて真逆だ。
それから、仏教は「知性(智慧)の宗教」なのに、「悟りの宗教」とされているのも誤解の元凶だという。「『知性』とは言葉による正しいことの決着だが、『悟り』とは言葉では表現できない体験しか意味しないのだから、両者はむしろ真っ向から対立すると見なすべきものなのである」(同書より)。
そのほか、もろもろの批判ポイントを書くと長くなるので、同書を読んでみてください。
ともかく、<言葉を超えた真理>だとか、<あるがままの自然の中に仏がどうたら>とか、<それって日本独自の精神の源流だ>とか無根拠に自画自賛したあげく、<でも、みんな仏教だよね>といって寛容にヘラヘラしている態度が、袴谷さんは許せないのだ。
< >は私が勝手に書いたが、本には上で挙げた梅原猛以下、いろいろな人の発言や文章が挙げてあって、それは実際かなり気持ち悪いものなので、読んでみてほしい。
(現在ある一般向けの仏教本や仏教がらみの発言にも、かなり共通する部分がある)
とくに、小林秀雄ファンの人には、おすすめですよ。
私は個人的に、本覚思想も如来蔵も嫌いだし、梅原猛も中沢新一もケミカルが合わないので、袴谷さんにけっこう近いのかもしれない。
ただ、袴谷さんは「仏教の下落」がものすごく早く始まってると見なしていて、「釈尊の「批判の哲学」は、ナーガールジュナやダルマキールティなどわずかな例を除けば、ほとんどが「場所の哲学」に変質して」(同書より)骨抜きにされてしまった、と嘆く。
え~。だったら歴史上“仏教”に帰依したり救われた数十億人のうち、「正しい仏教」がわかってたのは1%ぐらい、ってこと? だとしたら、「正しさ」によって、仏教はずいぶんと痩せ細ってしまうなあ、
それはつまらないな、とも思った。
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ネット上に、平成11年に駒澤大学で末木文美士先生が行った講演の記録
「鎌倉仏教と現代 ――批判仏教の問題提起を受けて」が載っていた。
袴谷さんに敬意を払いつつ、ご自身の立場を表明していた。
『批判仏教』で感じた違和感の正体として、とても納得した。
末木先生いわく
「これが正しいのだ、という思想を私はむしろ信用できない」
「批判仏教的な考え方は、民衆の思想に対する侮蔑、軽蔑がある。
たとえば民衆社会の中に根ざしている密教的な考え方とか、あるいは神仏習合的な考え方に対して強く批判する。そういう意味で言えば一種の啓蒙主義であると言ってもいいと思います。(中略) 民衆の中にはぐくまれてきた思想を軽蔑して、無理やり、いわば上から思想を強引に押し付けることになるのではないか」
http://ci.nii.ac.jp/naid/110007019414
龍樹さん「57の罪過」の後半
『龍樹論集』(中公文庫 梶山雄一・瓜生津隆真訳)
「宝行王正論」の5章にある「五十七の罪過」の後半(昨日のつづき)。
(同書からほぼ丸写し。一部語尾だけ省略)
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22 驚怖(無物)とは理解がないために、あるいは病いのために
生じた混乱
23 悪貪は自己のよくない資具に対して(生じるもので)
懈怠(けたい)のある人にあります
24(自他)区別の思いとは、貪り、怒り、愚かさによって
思いが汚されること
25 不注意(不作意)とは、心で現に観察していないこと
行いに正しく努力しないために
26 尊敬の欠如があり、師に対して偽りがあるのが
27 破廉恥(不恭敬)であります。
そのような人は悪人であるといわれます
28 染着(せんじゃく)は小さな煩悩(纏縛 てんばく)であって
欲界の貪着から生じます
29 偏執は欲望から生じるきわめて大きな束縛であります
30 貪とは、自己の事物に対する貪りであり、
31 他人の事物に執着することが不当な貪りといわれます
32 (妻とすることを)捨てるべき女人に貪着することが
貪着すべからざるものへの貪欲であります
33 悪欲とは、徳がないにもかかわらず徳があると偽ることであります
34 大欲とは、激しい渇望で満足の喜びが欠けていることです
35 得欲とは、自己に徳が具備していると、なんとかして
知らそうと欲すること
36 不忍とは、他人が加える害や自己に生じる苦を忍ばないこと
37 無作法とは、師や指導者のされることに尊敬を払わないこと
38 難語(忠告を聞きいれないこと)は、法にかなったことばが
述べられてもそれを尊重しないこと
39 親覚(親しい人との結合を考えること)とは親しい人への愛着
40 土地への愛着とは、それを求めてその長所を述べ立てること
41 不死分別とは、死の恐怖をおそれないこと
42 随順を求める思いとは、功徳をそなえているふりをして
他の人びとがわれをなんとかして師とするように、と考えること
43 他人に貪着する思いとは、他の人々に愛着すること
44 憎しみの心をいだくことは損得を考えること
45 不快とは、落ち着くところのない心であり、
46 羨(うらやみ)とは(欲に)濁っている心です
47 疲倦(ひけん)とは努力がなくなった身体が怠惰である
ための過失
48 改変とは、煩悩によって身体と色つやが変化すること
49 食を欲しないこと(食酔 じきすい)とは不節食によって
身体が安らかでないこと
50 心の卑弱とは、心がきわめて卑俗であること
51 貪欲(欲々)とは五欲(色声香味触の5つの感官の対象)を
貪り求めること
52 害心とは(過去・未来・現在)の三時にわたって、
自己と味方と敵方のいずれにもある無意味な疑念から
他人を害しようとする心であり9つの原因から生じます
身心が鈍重となり、そのために活動を離れているのが
53 夢であります。眠っているのが
54 睡眠であり、
55 軽薄(掉挙じょうこ)とは身心の浮つきであります
56 後悔とは、悪事をなして悔やむことであり
のちに身をさいなむことから生じます
57 (四)諦、(三)宝などにかんして猶予することが
疑いであります