親・妻子を捨てる出家は人の道ではない!by 平田篤胤
仏教をボロクソに批判したものを読みたい。
迷信めいた部分への批判は少なくないだろうけど、お釈迦さまの教説そのものを批判したものを読んでみたい。
『解体する言葉と世界』(末木文美士著、岩波書店)の、「神仏論序説」という章で、神道からの最も強力な仏教批判者として、平田篤胤のことが書いてあった。
『鬼神新論』『出定笑語(しゅつじょうしょうご)』などから引用されている仏教批判は、なんというか、面白い。
例えばどういう批判をしているかというと
・インドは「モロコシ(中国)ヨリモ、マタ余程ワルイ国デゴザル」
・「釈迦ガ元来凡人デアル」のに、母親の脇の下から生まれたとか、全身金色だとかいって、超人的に描いている
・ 釈迦の神通は、実は幻術で、狸や狐が人を化かすのと同類だ
・ 釈迦の仏法はそのような幻術を除くと「正味ノコルトコロは、只、天堂、地獄、輪廻、治心ノ、四条バカリ」であって、そんなことは日本の古書にたくさん書いてある
・ 釈迦の仏法は、死生を離れ、俗世を捨て、親も妻子も捨てることで、「真ノ人間ニハトント出来ヌコトデゴザル」「人情ニ相反シテヲル」
・ 大乗仏典は偽作者がイイカゲンにこしらえたもので、なかでも法華経は「ミナ能書キバカリデ、カンヂンノ丸薬ガアリヤセヌ」(この法華経評価は有名らしい。確かに読むとそう思う・・・)
・ 生まれついての「真ノ心」というものは、親を敬い、妻子をめぐみ、富貴を願い、悪しきを嫌がり善きを好むのがすなわち「性」で、これに反する(釈迦の教えは)「人ノ道トハ言レマセヌ」
・ だから仏教の「見性」の方向は間違っていて、釈迦や達磨は、「ネヂケゴトヲ考ヘツケ」、それを無理に「見性した、成仏した」と思っているだけである。
・ そんなことに6年9年と苦しんで修行するのはバカげている。「今キイテ今ワカリ、今ヤッテ今デキル、一向無造作ナルモノハ、此サトリデゴザル」」。
世俗のままのあり方を認めるのが、本当の悟りだ、と。
えっ、でもそれって、日本仏教のメインストリーム「本覚思想」と同じじゃない?
面白いことに、仏教を批判していたはずの平田篤胤の発想が、「本覚思想」に他ならないことを、末木先生は指摘している。
また、平田篤胤の仏教批判で、際立って面白いのは、空海論だという。
空海は「奸曲ワルダクミ」によって、ありもしない大日如来という名を設け、龍樹が鉄塔から「大日経」を取り出したという伝承は天照大神の岩戸の隠れ話をもとにした作り話であり、空海の密教とは「神仏習合シテ、神ト仏トヲ混同シテ人ヲ惑ワシ」、自分の仏教を信じさせようとした悪だくみである、と。
末木先生は、「痛快とも言える悪罵を読むとき、何かかえってそこに、篤胤の空海への親近感があるのではないか、という皮肉な思いさえする」と書いている。
キリスト教側からの仏教批判といえば、不干斎ハビアンの『妙貞問答』って東洋文庫に入ってるんですね。そのうち読んでみようっと。

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末木先生の新作が出た。けど旧作について(「解体する言葉と世界」)
末木文美士先生の新書が出た。
その解説は、謎のスーパー仏教書レビュアー・ソコツさんがアマゾンに書いている。
新作は未読だけれど、たまたま、末木先生の旧作『解体する言葉と世界』(1998年、岩波書店)を読んでいる。これも、いろいろな雑誌などに書いた論文、エッセイを集めたものだ。
自己申告によると、末木先生はイジイジと暗い20代を過ごし、哲学にも文学にも宗教にも挫折し、かなり年をいってから仏教学者として定職を得たそうだ。
その経歴の果実で、この本は小説や俳句、哲学、仏教は縦横無尽に書かれていて、相当に面白い。相当にインテリ度が高い。何歳になっても悟りすましたことを言わずにイジイジしてるふうの末木先生(の本)が、私は好きだ。
同書より後のための自分メモ。
仏教「宙ぶらりん」派はマイノリティでちょっと変態だろうか。
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「空」は批判的な方法として強力な破壊力を持つ一方で、安定した原理でもあろうとする。しかし後者は必ずしも「空」の立場にとって居心地のいいものではない。後者の方向を徹底するならば、あえて空に固執する必要はなくなり、むしろ積極的にアートマンなりブラフマンを定立する方が余程自然であり、安定的である。事実、仏教はインドにおいてやがて正統派の主流派の思想に思想界の主流を奪われ、特に中観派の「空」の方法は大幅に主流中の主流であるヴェーダーンタ派に摂取され、「仮面の仏教徒」とさえ言われるシャンカラによって大成されるのである。
「空」はこのようにそれ自体不安定な原理である。不安定な原理であるから、安定へ向おうとするが、安定してしまうと「空」の「空」である所以を自己否定してしまうことになる。常に不安定な宙ぶらりんの状態であることを宿命づけられている。
(「仏教、言語、そして文学」)
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「言葉では語れない悟り」などと易々と言うことのうさんくささについて。
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言葉の枠は容易には超えられない。(中略)その枠を無制限に逸脱した悟りという言語外の体験世界を考えることができるのか。その問いの設定そのものが言語の次元でなされているではないか。(中略)「宗教体験」を余りにやすやすと言う人のいかがわしさはここにある。それほど容易に達せられ、語りうる「体験」は、所詮その枠から一歩も出ていない。
そこで、禅の場合はどうだろうか。禅は不立文字と言う。それ故、しばしば禅は言語否定の体験主義と考えられる。だが、そうだろうか。よく言われるように、禅宗ほど饒舌を尽くした語録が残されている宗派は他にはない。(中略)むしろ不立文字はレトリックであり、それは言葉の洪水の世界だ。(中略)インドの仏教ならば、ある次元までは徹底して論理的な言語で押しつめてゆき、さあここまで、と突き放す。公案言語は、そうではなく、徹頭徹言語に付き合おうとする。
(「解体する言葉と世界」)
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祝!増谷訳『阿含経典』シリーズがやっと文庫化
今日本屋さんに行って初めて知ったのだが、
長らく絶版だった『阿含経典』(筑摩書房・増谷文雄訳、初版1979年、全6巻)
がついに、ちくま学芸文庫から文庫化され始めた。ブラボー。
第1巻は8月8日発売、第2巻は9月のようだ。
私は古書店でもとの本を揃いで買って読んだのだが、
とても読みやすい訳だった。
パーリ語の阿含経典は
1)長部
2)中部
3)相応部
4)増支部
5)小部
があるが、増谷シリーズは相応部(サンユッタ・ニカーヤ)から
ピックアップしたもの。
相応部は、いま春秋社からリリースが始まっているけれど、
なんせ1冊7000円以上するのが泣ける。
もっと詳しい大蔵出版の片山一良訳は1冊9000円以上。
プロ・セミプロでない仏教ファンなら、
まずはちくま学芸文庫の増谷版(1890円)を読んでみたらいいと思う。
第1巻の冒頭には、「総論」として
阿含経典の全体像が解説されていてる。(種本だと85ページ分)
30年以上前の本なので、学問的には古いのかもしれないが、
わたしは読んでおもしろかった。
阿含経典1 存在の法則(縁起)に関する経典群 人間の分析(五蘊)に関する経典群 (ちくま学芸文庫)