末木先生の新作が出た。けど旧作について(「解体する言葉と世界」)
末木文美士先生の新書が出た。
その解説は、謎のスーパー仏教書レビュアー・ソコツさんがアマゾンに書いている。
新作は未読だけれど、たまたま、末木先生の旧作『解体する言葉と世界』(1998年、岩波書店)を読んでいる。これも、いろいろな雑誌などに書いた論文、エッセイを集めたものだ。
自己申告によると、末木先生はイジイジと暗い20代を過ごし、哲学にも文学にも宗教にも挫折し、かなり年をいってから仏教学者として定職を得たそうだ。
その経歴の果実で、この本は小説や俳句、哲学、仏教は縦横無尽に書かれていて、相当に面白い。相当にインテリ度が高い。何歳になっても悟りすましたことを言わずにイジイジしてるふうの末木先生(の本)が、私は好きだ。
同書より後のための自分メモ。
仏教「宙ぶらりん」派はマイノリティでちょっと変態だろうか。
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「空」は批判的な方法として強力な破壊力を持つ一方で、安定した原理でもあろうとする。しかし後者は必ずしも「空」の立場にとって居心地のいいものではない。後者の方向を徹底するならば、あえて空に固執する必要はなくなり、むしろ積極的にアートマンなりブラフマンを定立する方が余程自然であり、安定的である。事実、仏教はインドにおいてやがて正統派の主流派の思想に思想界の主流を奪われ、特に中観派の「空」の方法は大幅に主流中の主流であるヴェーダーンタ派に摂取され、「仮面の仏教徒」とさえ言われるシャンカラによって大成されるのである。
「空」はこのようにそれ自体不安定な原理である。不安定な原理であるから、安定へ向おうとするが、安定してしまうと「空」の「空」である所以を自己否定してしまうことになる。常に不安定な宙ぶらりんの状態であることを宿命づけられている。
(「仏教、言語、そして文学」)
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「言葉では語れない悟り」などと易々と言うことのうさんくささについて。
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言葉の枠は容易には超えられない。(中略)その枠を無制限に逸脱した悟りという言語外の体験世界を考えることができるのか。その問いの設定そのものが言語の次元でなされているではないか。(中略)「宗教体験」を余りにやすやすと言う人のいかがわしさはここにある。それほど容易に達せられ、語りうる「体験」は、所詮その枠から一歩も出ていない。
そこで、禅の場合はどうだろうか。禅は不立文字と言う。それ故、しばしば禅は言語否定の体験主義と考えられる。だが、そうだろうか。よく言われるように、禅宗ほど饒舌を尽くした語録が残されている宗派は他にはない。(中略)むしろ不立文字はレトリックであり、それは言葉の洪水の世界だ。(中略)インドの仏教ならば、ある次元までは徹底して論理的な言語で押しつめてゆき、さあここまで、と突き放す。公案言語は、そうではなく、徹頭徹言語に付き合おうとする。
(「解体する言葉と世界」)
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