龍樹さんが説く、絶つべき「57の罪過」(宝行王正論)
『龍樹論集』(中公文庫 梶山雄一・瓜生津隆真訳)の
メモのつづき。
龍樹さんといえば「空」ですが、
空については私自身、まだピンときていなくて、
研究者によって見方もちがったりして、
もっといろいろ勉強せねば・・・。
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他を条件としてあること(此縁性 しねんしょう)という
この(真理)を知って、邪説(見)の網なる妄想を脱する人は、
貪り、怒り、愚かさを捨てているから、
(煩悩の)余燼のない涅槃に赴く。
(同書「空七十論」より)
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超理知的な龍樹さんですが、「宝行王正論」などなどを読むと、
「かくあるべし」という倫理的な教えも詳述されていて、
身につまされることしきりでした。
(王さまに対して、死刑はやめろ、などの具体的な提言もしている)
以下は「宝行王正論」の5章にある「五十七の罪過」より。
(同書からほぼ丸写し。一部語尾だけ省略)
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五十七の罪過
些細であっても罪過を認めたならば、その罪過の根源を絶ち、
五十七あるといわれる罪過を、努めてはっきりと理解しなければなりません。
1 忿(いかり)とは心が乱れ騒ぐことであり、それに結びついているのが
2 恨(うらみ)であります。
3 覆とは(自己の)欠点を覆うことであり、
4 張り合い(悩)とはその欠点に執着することです。
5 誑(たぶらかし)とは他人を欺くことであり
6 諂(へつらい)とは心の性向をゆがめることであります。
7 嫉(そねみ)とは他人の長所をねたむことであり、
8 慳(ものおしみ)とは施しをおそれることです。
9 無慚(むざん)は自己に恥じないこと、
10 無愧(むき)とは他人に恥じないことです。
11 傲慢とは(他人を)敬わないことであり、
12 罪過の始発(動乱)とは怒りがかきたてることであります。
13 憍とは高ぶることであり、
14 放逸とは諸善を行わないことです。
15 慢は七種があり、
慢/慢心を起こして(われは)劣る者より劣る、同等の者と等しい、
劣る者よりすぐれている、または等しいとほこること、
これが慢といわれます。
高慢/いかなる性質からしても自己よりすぐれている人と
等しいとほこること、および(自己より)すぐれている人より
さらにすぐれているとほこること、これが高慢であります。
慢過慢/最高のものよりさらにすぐれているとほこることが
思い上がり(慢過慢)であって・・・
我慢/生存の要素(取)といわれる五蘊は空でありますが、
愚かなためにそれらに「われあり」と我執を起こします。
それが我執心(我慢)といわれます
増上慢/修行の報いを得ていないのに得た、と考えるのが
うぬぼれること
邪慢/悪業をなすことを讃えること
卑下慢/自己を必要なし、と自身を軽蔑すること
これらを総括して七慢といいます
16 偽善(詐偽)とは利得や名聞のために感官を制すること
17 冗言(多言)とは利得や名聞のためにやさしいことばを
人前で並べたてること
18 占い(またはそそのかし)とは、他人の財を得るために、
それに賛辞をなすこと
19 強迫(呵責)とは利得のために明らさまに他人を責めたてること
20 利求利(りぐり・利得によってさらに利得を求めること)とは
先に得たものに賛辞をなすこと(で他からより以上の利得を得よう
とすること)
21 罪過の陳述とは、他人の誤りを一つ一つ述べ立てること
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色字は、へーっと思ったり、特に身につまされたもの。
龍樹さんの絶叫(「龍樹論集」)
般若経を読んだので、『中論』以外の龍樹の論も読んでみようと思って、
『大乗仏典14 龍樹論集』(中公文庫、梶山雄一・瓜生津隆真訳)を
読んでいる。
『六十頌如理論』『空七十論』『廻諍論』『ヴァイダルヤ論』
『宝行王正論』『勧誡王頌』『大乗二十頌論』『因縁心論』
の現代語訳が収録されている、ありがたい1冊。
前半を読み終わったところでは、
「中論」を読んだときと同様、発狂しそうだけれど、
龍樹さんというのは、とんでもなく頭のいい人だったんだなあと思う。
『六十頌如理論』『空七十論』『廻諍論』『ヴァイダルヤ論』は
一種の想定問答集みたいになっていて、
反論者を徹底的にやっつけるという論争の書だった。
説一切有部をはじめとする、仏教に何等かの実体めいたものを
持ち込む人たちに対して、
お釈迦さまが言ってる縁起はそんなことじゃなーーい!!!
と龍樹さんはひたすら絶叫し続けている。
でも、むしろ説一切有部とか、今のテーラワーダ仏教とかも
そうですが、そちらのほうが不思議といえば不思議ですよね。
世界や人間を細かく部品にわけて(五位七十五法)、
「世界は部品の集合体にすぎない」と言いつつも、
部品自体はいつでも存在していますよ(三世実有法体恒有)、
というのが彼らの世界観なわけですよね。
なんでそういうふうに考えたんだろう?
せっかくお釈迦さまが無常とか縁起と言ったのに、
なんで確固たる部品を設定しちゃったんだろう?
現代人が、原子とか素粒子とかを考えるように、
「基本要素」を設定すると落ち着くのが人間のサガなのでしょうか。
龍樹さんは、そんな基本要素なんかなーーい!ということを
「空」と呼んだ(と理解していいのかしら?自信なし)とすれば、
その点においてわたしは龍樹さんに1票を投じたい。
仏教史上、最凶のディベートマスターである龍樹さんですが、
『宝行王正論』はちょっと毛色が違った。
南インドのシャータヴァーハナ王朝の王さまに自説を説いたもの
とされているらしく、珍しくわかりやすい書き方だ。
血でも臓器でも!自己犠牲やりすぎ菩薩(八千頌般若経)
『八千頌(じゅ)般若経』(大乗仏典3 中公文庫、梶山雄一訳)
の2分冊目を読み終わった。
だんだん飽きてくるけれど、最後に、強烈な話が登場する。
サダープラルディタ(常啼/じょうたい)菩薩大士の、
ほとんどマゾじゃないかという自己犠牲の物語だ。
(以下は、同書の要約+わたしの感想)
悩み多きサダープラルディタ菩薩大士に、如来がこう言う。
ガンダヴァーティーという都市があり、
そこにダルモードガタ菩薩大士という菩薩がいるから、
教えを請いに行きなさい、と。
この都市が、七宝でできた極楽浄土のようなところで、
ダルモードガタ菩薩大士が、大富豪。
豪邸で6万8000人(!)の女をはべらせて遊び楽しみ、
1日3回、般若波羅蜜の講義をするという、
菩薩だかなんだかわからない豪奢な暮らしをしている。
サダープラルディタ菩薩大士はダルモードガタ菩薩大士の
説法を聞いて感激し、訪問しようと思ったが、
手ぶらじゃ何だな、ということで供養の品を思案する。
ところが、サダープラルディタ菩薩大士は貧しく、
思いついたのが
「この身体を売って、その代金で敬意をあらわしたらどうか」。
そして、市場で繰り返し大声で叫んだのである。
「どなたか人間を買いたいかたはいませんか」。
相手は大富豪なんだから、そこまでしなくていいじゃない!
買い手が見つからずに隅っこで泣いていると、
シャクラ(帝釈天)が若者に姿を変えてやってきて、こう申し出る。
「祖先へのいけにえとして、人間の心臓、血液、骨、髄がほしいんだけど」。
うわあ臓器売買だ。
サダープラルディタ菩薩大士は、断るどころか歓喜して、
刃物を自らの腕に刺して血をほとぼらせ、
太ももの肉をそいだのち、骨を断ち切るために壁の土台に近づいたのである。(でもシャクラが彼の身体をもとどおりにする)
それを見ていた豪商の娘が感動して、
サダープラルディタ菩薩大士を家に連れて行き、
両親に話すと、これまた感動して「仲間に入れておくれ」と言う。
そこで、500台の車を準備させて500人の娘を分乗させ、
宝石やら食料やら量りしれぬ供養の品を積んで、
きらびやかな隊列を組んでダルモードガタ菩薩大士のもとに
向かったのであった。
到着すると、ダルモードガタ菩薩大士は、
七宝でとんでもなくゴージャスな楼閣を造営させたところだった。
その楼閣に安置されているのは、
溶かした猫目石で黄金の板に書写された般若経。
(仏舎利信仰から経典信仰へ、と言われる通りですね)
そのあと、ダルモードガタ菩薩大士は7年間も三昧に入った。
三昧から戻る菩薩大士のために席をしつらえていた
サダープラルディタ菩薩大士は、あたりに立ち込めている塵埃が、
「ダルモードガタ菩薩大士の身に振りかかるようなことが
あってはならない」と考える。
ところが、水を撒きたくても水が見つからない。
そこでサダープラルディタ菩薩大士は考えた。
「私は自分の体を傷つけて、この地面に血を撒いたらどうだろう」。
またそれですか!
そして、サダープラルディタ菩薩大士と、500人の娘たちもすべて、
刃物を手に取り、おのおの自分の体に突き刺し、
地面に各自の血液をまんべんなく撒いた。
・・・映画化したらすごいことになりそう。
この手のエキセントリックな自己犠牲は、阿含経典には出てこない。
やはり、ジャータカが広まって、
自分を供物にするために火に飛び込んだウサギ、
のような説話の影響を受けているわけでしょうか。
やりすぎだって。

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