善行ポイントを涅槃マイルに移行する(八千頌般若経 その4)
最初期の大乗仏典『八千頌(じゅ)般若経』(紀元前後~1世紀)
の現代語訳(大乗仏典3 中公文庫)のメモの続き。
といっても、最後の解説(梶山雄一先生)の部分です。
善いことをすると、なぜ「悟りに近づけるのか」?
ということを解説していて、
「廻向=えこう」要はカードのポイント移行みたいな話なんですね。
買い物で貯まったポイントがマイルにふりかえられるように、
善行ポイントが「悟り、涅槃」にふりかえられる、
それが大乗仏教だ、と。
(青字は同書解説より)
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「アーナンダよ、お前はどう思うか。
もし施与(の功徳)が全知者性(の獲得のため)に
ふりむけられ(廻向=えこう)ら(れるような仕方でなさ)れないならば、
それは施与の完成という名前を得るであろうか」。
同じことが、道徳、忍耐、努力、瞑想についても繰り返され、
多くの善根を全知者性のほうへふりむけるという仕方で
発展させるものが知恵の完成であると言われる。
善因が善果を、悪因が悪果をもたらすという業報の観念は、
仏教だけでなく、インド世界の倫理の領域を支配するだけであって、
それ自体が人を輪廻の世界から解放し、
宗教的真理を獲得させるものとはならない。
けれども「般若経」は、廻向の思想によって
倫理と宗教を結びつけた。
施与や道徳などの善根、つまり幸福の原因となる行為は、
それ自体ではたんにその行為者に未来において幸福をもたらすだけである。
しかし、知恵の完成(般若波羅蜜)は善根という倫理的行為を、
無上にして完全なさとり、すなわち全知者性にいたるための
原因に転換させ、ふりむけることができる。
このように方向転換させることが「廻向」といわれるのである。
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初期仏典(阿含経)では、善行ポイントと涅槃へのマイルは別物だったのが、
般若経で「アメックスJALカード」のように、
ドッキングして、移行が可能になったと。
善行のなかでも、特に、他者の役に立とうとする行為は、
心をかき乱して寂静から遠のくばっかりだから、
「いや、実はそのポイントは悟りに移行(廻向)できます」
とでも言われないと、やってられないですしねえ。
しかも、後代になると、ポイントを他人に移行できるようになります。
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やや後代になると、廻向は、自分の善根の結果である幸福を
他人にふりむける、という意味を担うことばとなる。
インドの業報思想はきびしい自己責任の観念をその本質として
いたから、善い行為にせよ、悪い行為にせよ、その結果である
幸福と不幸は必ず行為者自身に還ってくる。
しかし仏教の廻向の思想は、そのような方向転換をも可能にする。
この廻向の思想がなかったならば、大乗仏教、とくに法蔵菩薩(阿弥陀仏)の
無限の時間にわたる難行による極楽建設が、他のあらゆる有情に幸福を
もたらす、という浄土教の展開は不可能なものであったであろう。
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そのような、善根をさとりの原因に転化させる廻向ということは、
空の思想によって成り立つものであった。
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空と善の関係は、まだピンとこない。今後の課題だ・・。
理屈としてはわかるけれど、どうも系統が別のものという気がして・・・。

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『ブッダの言葉』を道端ジェシカが絶賛だそうで
本屋さんで、こんなPOPと帯を見て苦笑した。
『超訳 ブッダの言葉』
(小池龍之介さんが、ダンマパダやスッタニパータなど
初期仏典の素晴らしい名言を超訳。
『ニーチェの言葉』の大ヒットに気をよくした版元による)
↓
POP
<道端ジェシカさん、
「わかりやすく読みやすい!
2日もかからず、よめます」と、大・絶・賛!>
褒めポイントが「2日かからない」点とは、これいかに。
道端ジェシカ。ブッダの言葉も、たぶんスピリチュアル本として読んでいる。
『シンプル・プレゼン』
(プレゼンテーションに禅を取り入れよ、と説いている
ガー・レイノルズとかいうマーケティング系の人の本)
↓
帯
<「Zen(禅)」との融合でジョブズを超える!>
坐ったまま何も喋らないプレゼンとか?
言葉はここまで空疎になれるのかと逆に感心する。

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実際の、いわゆる”利他行”は、心の平穏を乱すばかり
人様の役に立とうとして、ボランテイアでもなんでも、
具体的な行為に手を染めた人ならわかると思うけれども、
ちっとも心の平穏は得られない。
むしろ、執着や自責の念にかられ、誰に何をするかの分別を迫られ、
ある人にとっては悪行であったりと、心が乱れるばっかりである。
「生きとし生けるものが幸せでありますように」といって
念じるに留めている限りではよいのだけれど、
具体的な行為に1歩でも踏み出すと、泥沼に引きこまれる。
ある日、痩せ細った子猫が家の前にフラフラと現われました
→かわいそうで、うっかり餌をあげた
→毎日、家の前でその子が待ってるので、つい餌をあげ続けた
→仕事で帰宅が遅くなると、猫が待ってるのでいたたまれない
→他の猫も集まってきたが、区別はつけられない
→猫の餌をとりに来るカラスの撃退に必死になる
→猫が嫌いな近所の人に怒鳴られた
→餌だけあげて去勢をしないのは、遠回しの虐待だと知る
→そうこうしてるうち、餌をあげてた子が、子猫を産んでしまった
→子猫の行く末が心配で夜も眠れない
→腹を括って、子猫を家に保護する。ペット不可なので大家に嘘をつく
→子猫を取り上げられた親猫が、悲しそうに毎晩家の前にいる
→親猫も家に保護することにした。見つからないかとビクビク
→近所の猫を、まとめて去勢することにした
→大家に内緒で、気づけば部屋に猫4匹がいる
→かわいい子は里親募集をする、そうでない子は無理なので野良のまま
→なんだかもろもろが、いたたまれない
以上は、いま私が置かれている状況です。
最初の段階で、痩せた猫に対して、
「生きとし生けるものが幸せでありますように」と合掌だけして立ち去れば、
まるっきり猫の腹の足しにはならなかっただろうけれど、
有情を区別することもなく、私の心は平穏であった。
現世的な行為について、絶対的な善行というのはなくて、
ある人にとってはそれは悪行であったりする。
またすべての有情の幸せを祈ることは可能だけれど、
腹の足しになる「善いこと」を無差別にやるのは不可能で、
どこかで線引きをする。誰かを切り捨てる。
大人なら、みんなわかっていることだ。
だからなのかどうか知らないが、
お釈迦さま(初期仏典)の利他は、
「シャングルの中で、私が見つけた道を教えましょう」ということで、
それは立派な利他だ。けれど、腹の足しにはならない。
前に、テーラワーダ系の誰かが言っていたけれど、
たとえば医師免許を持った人が僧侶になったとして、
現世的な医療行為を行っては(今でも)ダメなのだという。
というようなことをグダグダ書いているのは、
具体的な利他行が、悟りへの道であるという大乗思想は、
やっぱりそういうアクロバティックな仕掛けがあったのね、
と「八千頌般若経」を読んで思ったからなのでした。
つづきは後日。

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