実際の、いわゆる”利他行”は、心の平穏を乱すばかり | 釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

実際の、いわゆる”利他行”は、心の平穏を乱すばかり

人様の役に立とうとして、ボランテイアでもなんでも、
具体的な行為に手を染めた人ならわかると思うけれども、
ちっとも心の平穏は得られない。


むしろ、執着や自責の念にかられ、誰に何をするかの分別を迫られ、
ある人にとっては悪行であったりと、心が乱れるばっかりである。

「生きとし生けるものが幸せでありますように」といって
念じるに留めている限りではよいのだけれど、
具体的な行為に1歩でも踏み出すと、泥沼に引きこまれる。


ある日、痩せ細った子猫が家の前にフラフラと現われました
→かわいそうで、うっかり餌をあげた
→毎日、家の前でその子が待ってるので、つい餌をあげ続けた
→仕事で帰宅が遅くなると、猫が待ってるのでいたたまれない
→他の猫も集まってきたが、区別はつけられない
→猫の餌をとりに来るカラスの撃退に必死になる
→猫が嫌いな近所の人に怒鳴られた
→餌だけあげて去勢をしないのは、遠回しの虐待だと知る
→そうこうしてるうち、餌をあげてた子が、子猫を産んでしまった
→子猫の行く末が心配で夜も眠れない
→腹を括って、子猫を家に保護する。ペット不可なので大家に嘘をつく
→子猫を取り上げられた親猫が、悲しそうに毎晩家の前にいる
→親猫も家に保護することにした。見つからないかとビクビク
→近所の猫を、まとめて去勢することにした
→大家に内緒で、気づけば部屋に猫4匹がいる
→かわいい子は里親募集をする、そうでない子は無理なので野良のまま
→なんだかもろもろが、いたたまれない


以上は、いま私が置かれている状況です。


最初の段階で、痩せた猫に対して、
「生きとし生けるものが幸せでありますように」と合掌だけして立ち去れば、
まるっきり猫の腹の足しにはならなかっただろうけれど、
有情を区別することもなく、私の心は平穏であった。


現世的な行為について、絶対的な善行というのはなくて、
ある人にとってはそれは悪行であったりする。
またすべての有情の幸せを祈ることは可能だけれど、
腹の足しになる「善いこと」を無差別にやるのは不可能で、
どこかで線引きをする。誰かを切り捨てる。
大人なら、みんなわかっていることだ。


だからなのかどうか知らないが、
お釈迦さま(初期仏典)の利他は、
「シャングルの中で、私が見つけた道を教えましょう」ということで、
それは立派な利他だ。けれど、腹の足しにはならない。
前に、テーラワーダ系の誰かが言っていたけれど、
たとえば医師免許を持った人が僧侶になったとして、
現世的な医療行為を行っては(今でも)ダメなのだという。


というようなことをグダグダ書いているのは、
具体的な利他行が、悟りへの道であるという大乗思想は、
やっぱりそういうアクロバティックな仕掛けがあったのね、
と「八千頌般若経」を読んで思ったからなのでした。

つづきは後日。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村