面白そう!仏教学者×心臓外科医トークセッション(10月6日)
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私がほぼ毎回行って、毎回面白い「科学と仏教の接点」(臨済宗妙心寺派・東京禅センター)の講座、次回のゲストは名高い心臓外科の先生がゲストのようです。 人気講座で、定員いっぱいになることもあるので、興味のある人はお早めに申し込みを。 ========================= 平成24年10月6日(土) 午後2時~5時 |
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【講 師】 | 南淵明宏 (大崎病院東京ハートセンターセンター長) | ||
佐々木 閑 (花園大学国際禅学科教授) | |||
【会 場】 | 東京大学 駒場キャンパス | ||
【会 費】 | 無料 |
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【内 容】 | 大好評シリーズⅨ弾! |
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【申込方法】 | 前回申込者及び参加者対象の優先予約の受付については引き続き行っております。 |
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【お問合せ先】 | MAIL:zen@myoshin-zen-c.jp
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狂わずに龍樹を読むために・・・
龍樹さんが書いたものを読んで、頭が爆発しないようになりたい。
「空」をわかりたい、とかいうより、もっと初歩的な欲求なのだけれど、『中論』『龍樹論集』で頭が爆発した私のいまの課題です。
『シリーズ大乗仏教 第6巻 空と中観』(春秋社)を読みたかったけれどまだ刊行されてないので、たまたま書店にあった『ブッダと龍種の論理学』(石飛道子著、サンガ 2007年/2010年新装版)を読んでみた。
ブッダと龍樹の論理学―縁起と中道
同書のキモは、「真理表」なるものを使ってブッダと龍樹の論理を解説しているところなのだけれど、どうもこの真理表が私にはよく理解できない。
あとでネット上の評判を見たら、激賞している人がいると同時に、著者は西洋論理学がわかってないとか真理表の扱いが変だという評価もあったりして、どっちに部があるのかわからない。
ともあれ、面白かったところをメモしておこう。
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「いかなるものも自己ではなく、そして、自己ならざるものではないと諸仏により示されている」(中論 18・6)
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どっちなんだ!と叫び出したくなる。
著者によると、これで叫びたくなるのは、「あらゆるものは自己か、自己でないかのどちらかでしかない」(排中律)「二重否定は肯定に等しい」という前提が頭に叩き込まれているからだという。つまり「いかなるものも自己ではなく、そして、自己である」と読むから、頭が変になるのだ、と。
そこで著者は、「かき氷」の例を出す(こうやって例を出してくれるのはホント良心的)。
かき氷を頼んで、ちょいと席をはずしたら、溶けちゃって、なにやら液体状のものが入っている。「これはかき氷ではない」と彼は思う。(普通はここで終わるが、続きがある)
彼はかき氷をちょいとなめてみて、「かき氷でないわけでもない」と思う。
「変化の諸相をまのあたりにして、かき氷でもなく、かき氷でないわけでもない、と知るのである」。
「A・自己ではなく、B・自己ならざるものではない」というのは、これと同じことだという。つまりは、AとBの間に時間の流れがある、「たえず変化する世界がある」。
この解釈が正しいのかどうか私は判断できないけど、
少なくとも時間尺なしの排中律でいったら龍樹は頭がおかしい、ということになるから、なんか違う論理があることだけは間違いない(よね?)。
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<これ>があるとき<かれ>がある。たとえば、<長い>があるとき<短い>があるように。さらに、<短い>がないとき<長い>は存在しない。自性ならざるものだからである。
(宝行王正論、1・48-49)
<長い>は、比較としての<短い>がないと成り立たない。
これをもって、空とか縁起は、(同時的な)相互依存性=相依性をも意味する、と解釈する人もいるが、著者は“それは違う”と考える。
なぜかというと、現実には必ず思考は流れているから。
「ぎゃっ、蛇だ!」と見て、その一瞬あとにトカゲを思い浮かべて、「蛇、長っ!」と認識するからだという。確かに、長い蛇と、短いトカゲを同時に思い浮かべるというのは机上の空論で、刹那であろうとトカゲのほうが後ですわな。
また不思議なのは、蛇を見た瞬間、(より直径が短い)ゴルフボールを思い浮かべて、「蛇、長っ!」とは思わないんですよねえ。
あと「ゴルフボールより長いリンゴ」と思わないのも不思議。
ウサイン・ボルトが一人でそのへんを走り回ってるぶんには、速くも遅くもないわけですよね。そう思うと、「空」とは「ゲームなんだからマジになんなよ」という意味である(by南直哉さん)というのは納得できて、「空」で気が楽になると同時に、やる気もなくなる、というのもまた事実。
石飛さんとは立場が違うらしい桂紹隆 さんのこの本も面白いかも。
汚れた社会に染まらない私、という自我肥大(小池龍之介さん@朝日新聞)
8月25日の朝日新聞に「オウムは終わったのか」というテーマで、小池龍之介さんと宇野常寛さんのインタビューが載っていた。
小池さんの話は、全部がうなずけるわけではないけれど、耳が痛いところがあった。
多くの人が「何者かであらねばならない」という強迫観念にかられて、自己実現や生きる意味を追い求めているけれど、現実には自分など取るに足らない存在だし、生きる意味など別にない。そんななかで、幻想の「自我肥大」欲求に答えてくれたのがオウムだ、と小池さんは言う。
この歳になると、もう自分探し・生きる意味探しからは足を洗っているけれど、以下の一節は、耳が痛かった。
宗教は『負けている人』の逆転勝ちしたいという欲望をかきたてるところがあるのだと思います。(中略)
いまの社会に違和感を抱く人には、「この世界を壊して逆転したい」という方向とは別に、この世界に染まらずに超越するという考え方もあります。「社会は汚れているけれど、自分は清らかで他人より勝っている」という発想ですね。実際、私のところで仏教を学びたいという人のなかには、そういう思考を持った人がちらほらいます。
実はそれはものすごく強烈な自己変容への欲望であり、自我肥大の一つのバリエーションなのです。
(朝日新聞8/25)
「清らかな自分」というほどナイーブではないにせよ、世の中や日々の仕事を埋め尽くすドギツイ言葉の瓦礫に、いちいち厭世的になって内心毒づいたりするのは、「私は違う」と言いたいんじゃないか、おまえは? と自分に問うてみる。
初期仏典によく、泥の中からすっくと立って一点の汚れもない蓮の花が出てきて、そうありたいものだと思いつつも、それが自我肥大の隠れ蓑になっては元も子もない、と思った次第である。
しかし、朝日新聞の毎週木曜・夕刊の、小池さんの連載はすごいね。
ほとんど、すべての回が「自我肥大」に関連する話だ。
煩悩にももっといろいろ種類があるだろうに、と思うが、
編集者の意図なのか、はたまた、常軌を逸した自我肥大病の元患者である小池さんの意図なのか。

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