汚れた社会に染まらない私、という自我肥大(小池龍之介さん@朝日新聞)
8月25日の朝日新聞に「オウムは終わったのか」というテーマで、小池龍之介さんと宇野常寛さんのインタビューが載っていた。
小池さんの話は、全部がうなずけるわけではないけれど、耳が痛いところがあった。
多くの人が「何者かであらねばならない」という強迫観念にかられて、自己実現や生きる意味を追い求めているけれど、現実には自分など取るに足らない存在だし、生きる意味など別にない。そんななかで、幻想の「自我肥大」欲求に答えてくれたのがオウムだ、と小池さんは言う。
この歳になると、もう自分探し・生きる意味探しからは足を洗っているけれど、以下の一節は、耳が痛かった。
宗教は『負けている人』の逆転勝ちしたいという欲望をかきたてるところがあるのだと思います。(中略)
いまの社会に違和感を抱く人には、「この世界を壊して逆転したい」という方向とは別に、この世界に染まらずに超越するという考え方もあります。「社会は汚れているけれど、自分は清らかで他人より勝っている」という発想ですね。実際、私のところで仏教を学びたいという人のなかには、そういう思考を持った人がちらほらいます。
実はそれはものすごく強烈な自己変容への欲望であり、自我肥大の一つのバリエーションなのです。
(朝日新聞8/25)
「清らかな自分」というほどナイーブではないにせよ、世の中や日々の仕事を埋め尽くすドギツイ言葉の瓦礫に、いちいち厭世的になって内心毒づいたりするのは、「私は違う」と言いたいんじゃないか、おまえは? と自分に問うてみる。
初期仏典によく、泥の中からすっくと立って一点の汚れもない蓮の花が出てきて、そうありたいものだと思いつつも、それが自我肥大の隠れ蓑になっては元も子もない、と思った次第である。
しかし、朝日新聞の毎週木曜・夕刊の、小池さんの連載はすごいね。
ほとんど、すべての回が「自我肥大」に関連する話だ。
煩悩にももっといろいろ種類があるだろうに、と思うが、
編集者の意図なのか、はたまた、常軌を逸した自我肥大病の元患者である小池さんの意図なのか。

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