狂わずに龍樹を読むために・・・
龍樹さんが書いたものを読んで、頭が爆発しないようになりたい。
「空」をわかりたい、とかいうより、もっと初歩的な欲求なのだけれど、『中論』『龍樹論集』で頭が爆発した私のいまの課題です。
『シリーズ大乗仏教 第6巻 空と中観』(春秋社)を読みたかったけれどまだ刊行されてないので、たまたま書店にあった『ブッダと龍種の論理学』(石飛道子著、サンガ 2007年/2010年新装版)を読んでみた。
ブッダと龍樹の論理学―縁起と中道
同書のキモは、「真理表」なるものを使ってブッダと龍樹の論理を解説しているところなのだけれど、どうもこの真理表が私にはよく理解できない。
あとでネット上の評判を見たら、激賞している人がいると同時に、著者は西洋論理学がわかってないとか真理表の扱いが変だという評価もあったりして、どっちに部があるのかわからない。
ともあれ、面白かったところをメモしておこう。
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「いかなるものも自己ではなく、そして、自己ならざるものではないと諸仏により示されている」(中論 18・6)
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どっちなんだ!と叫び出したくなる。
著者によると、これで叫びたくなるのは、「あらゆるものは自己か、自己でないかのどちらかでしかない」(排中律)「二重否定は肯定に等しい」という前提が頭に叩き込まれているからだという。つまり「いかなるものも自己ではなく、そして、自己である」と読むから、頭が変になるのだ、と。
そこで著者は、「かき氷」の例を出す(こうやって例を出してくれるのはホント良心的)。
かき氷を頼んで、ちょいと席をはずしたら、溶けちゃって、なにやら液体状のものが入っている。「これはかき氷ではない」と彼は思う。(普通はここで終わるが、続きがある)
彼はかき氷をちょいとなめてみて、「かき氷でないわけでもない」と思う。
「変化の諸相をまのあたりにして、かき氷でもなく、かき氷でないわけでもない、と知るのである」。
「A・自己ではなく、B・自己ならざるものではない」というのは、これと同じことだという。つまりは、AとBの間に時間の流れがある、「たえず変化する世界がある」。
この解釈が正しいのかどうか私は判断できないけど、
少なくとも時間尺なしの排中律でいったら龍樹は頭がおかしい、ということになるから、なんか違う論理があることだけは間違いない(よね?)。
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<これ>があるとき<かれ>がある。たとえば、<長い>があるとき<短い>があるように。さらに、<短い>がないとき<長い>は存在しない。自性ならざるものだからである。
(宝行王正論、1・48-49)
<長い>は、比較としての<短い>がないと成り立たない。
これをもって、空とか縁起は、(同時的な)相互依存性=相依性をも意味する、と解釈する人もいるが、著者は“それは違う”と考える。
なぜかというと、現実には必ず思考は流れているから。
「ぎゃっ、蛇だ!」と見て、その一瞬あとにトカゲを思い浮かべて、「蛇、長っ!」と認識するからだという。確かに、長い蛇と、短いトカゲを同時に思い浮かべるというのは机上の空論で、刹那であろうとトカゲのほうが後ですわな。
また不思議なのは、蛇を見た瞬間、(より直径が短い)ゴルフボールを思い浮かべて、「蛇、長っ!」とは思わないんですよねえ。
あと「ゴルフボールより長いリンゴ」と思わないのも不思議。
ウサイン・ボルトが一人でそのへんを走り回ってるぶんには、速くも遅くもないわけですよね。そう思うと、「空」とは「ゲームなんだからマジになんなよ」という意味である(by南直哉さん)というのは納得できて、「空」で気が楽になると同時に、やる気もなくなる、というのもまた事実。
石飛さんとは立場が違うらしい桂紹隆 さんのこの本も面白いかも。