小林秀雄から中沢新一までボロクソ(『批判仏教』袴谷憲昭著)
たまたま通りがかった古本屋さんに
『批判仏教』(袴谷憲昭著、大蔵出版、1990年)があったので、
買って読んでみた。
この当時、駒沢大学の袴谷先生と松本史朗先生が論議を巻き起こしたのは知っていたので、そのうち読んでみようと思っていたのだった。結局、お2人の宣戦布告は、スルーされたのか、潰されたのか、継承されたのか、よく知らないけれども。
『批判仏教』、すごかったですね。
梅原猛、和辻哲郎、小林秀雄、川端康成から山折哲雄、中沢新一まで、ぶった斬り。
<あんたらが言っている仏教(≒日本でウケている主流の仏教)なんか、ぜんぜん仏教じゃない!>と激烈批判して、気持ちいいぐらい。
といっても、袴谷さんご本人がもっとも血みどろになっている感じだった。
もっとも激しく攻撃しているのが、
「本覚思想」という、”ありのままでいいんだよ教”。
これは中国の老荘思想で土着化した仏教が、日本に入ってきてさらに土着化したもので、「正しい仏教」とは真逆だという。たしかに初期仏典では、ありのままじゃいけないから修行しろ修行しろ、とひたすら書いているから、普通に考えて真逆だ。
それから、仏教は「知性(智慧)の宗教」なのに、「悟りの宗教」とされているのも誤解の元凶だという。「『知性』とは言葉による正しいことの決着だが、『悟り』とは言葉では表現できない体験しか意味しないのだから、両者はむしろ真っ向から対立すると見なすべきものなのである」(同書より)。
そのほか、もろもろの批判ポイントを書くと長くなるので、同書を読んでみてください。
ともかく、<言葉を超えた真理>だとか、<あるがままの自然の中に仏がどうたら>とか、<それって日本独自の精神の源流だ>とか無根拠に自画自賛したあげく、<でも、みんな仏教だよね>といって寛容にヘラヘラしている態度が、袴谷さんは許せないのだ。
< >は私が勝手に書いたが、本には上で挙げた梅原猛以下、いろいろな人の発言や文章が挙げてあって、それは実際かなり気持ち悪いものなので、読んでみてほしい。
(現在ある一般向けの仏教本や仏教がらみの発言にも、かなり共通する部分がある)
とくに、小林秀雄ファンの人には、おすすめですよ。
私は個人的に、本覚思想も如来蔵も嫌いだし、梅原猛も中沢新一もケミカルが合わないので、袴谷さんにけっこう近いのかもしれない。
ただ、袴谷さんは「仏教の下落」がものすごく早く始まってると見なしていて、「釈尊の「批判の哲学」は、ナーガールジュナやダルマキールティなどわずかな例を除けば、ほとんどが「場所の哲学」に変質して」(同書より)骨抜きにされてしまった、と嘆く。
え~。だったら歴史上“仏教”に帰依したり救われた数十億人のうち、「正しい仏教」がわかってたのは1%ぐらい、ってこと? だとしたら、「正しさ」によって、仏教はずいぶんと痩せ細ってしまうなあ、
それはつまらないな、とも思った。
==============================
ネット上に、平成11年に駒澤大学で末木文美士先生が行った講演の記録
「鎌倉仏教と現代 ――批判仏教の問題提起を受けて」が載っていた。
袴谷さんに敬意を払いつつ、ご自身の立場を表明していた。
『批判仏教』で感じた違和感の正体として、とても納得した。
末木先生いわく
「これが正しいのだ、という思想を私はむしろ信用できない」
「批判仏教的な考え方は、民衆の思想に対する侮蔑、軽蔑がある。
たとえば民衆社会の中に根ざしている密教的な考え方とか、あるいは神仏習合的な考え方に対して強く批判する。そういう意味で言えば一種の啓蒙主義であると言ってもいいと思います。(中略) 民衆の中にはぐくまれてきた思想を軽蔑して、無理やり、いわば上から思想を強引に押し付けることになるのではないか」
http://ci.nii.ac.jp/naid/110007019414