気高きお釈迦さまのイメージは誰が作ったのか?(「新アジア仏教史02」その2)
『新アジア仏教史02 仏教の形成と展開』第1章「近代仏教学の形成と展開」(著:下田正弘先生)のメモの続き(青字は同書からの引用)。素晴らしくおもしろかった。
昨日、<仏教>という概念が、1820年代のヨーロッパ人によって作られた、というメモを書いた。インドでゴータマという人の説いた教えが仏教であって、その後、アジア各地で多様化した――という仏教の“常識”すら、200年前まで共有されてなかったらしいことに驚いた。
仏教は、アジアには現実にあるけれど、西洋では「文献」の中に理念としてある。
その結果、何が起こったか。同書では、フィリップ・アモンドという学者が書いた『The British Discovery of Buddhism』(1988年)の指摘を紹介している(残念ながら邦訳はないみたい・・)。
一番ショッキングだったのは、お釈迦さまの崇高な人格のイメージは、当時のイギリス人の理想像をかなり反映している、という指摘だ。
アマンドによると、当時のイギリスの著述家たちは、ブッダについて
「王子として誕生しながら、もっとも卑しきものたちの悲しみと道徳的葛藤に共感し、善、真理、そして無私を求めるものたちを兄弟として受けとめようともろ手を開く」等々と、口を極めてベタボメしていたという。
ところが、下田先生はこう指摘する。
「注意すべきは、19世紀末の著作に見られるこうしたブッダ像は、文献を根拠として歴史的研究によって導き出された成果ではなかった点である」。
「当時の著作にあってブッダが理想的なすがたとして結実しえたのは、著者たちが理想とする人間像―アマンドの指摘にしたがえば、騎士の精神が具現された理想者―をブッダに付与したからにほかならない」
19世紀の西洋キリスト教的価値観でもって、「文献を利用して創造」されたブッダ像だというのだ。
しかもそれは、いま私たちが持っている“気高きお釈迦さま”イメージと、かなり近い。
日本人は19世紀まで、お釈迦さまといえば「法華経の仏」だったろうし、あそこに出て来るお釈迦さまは別に高潔な人格でもないし、現在のお釈迦さまイメージはやっぱりヨーロッパからの輸入だったのだろうか?
それから、もう一つの耳が痛い指摘。
ヨーロッパ人は「パーリ語仏典の中にあるのが“本来の仏教”だ」と認定した。そして、現実にアジアにある仏教、特に大乗仏教やら密教は、“本来の仏教”とかけ離れた“堕落した仏教”という話になる。
「(19世紀後半のヨーロッパの)著述家たちの声は、現状の堕落、衰退を嘆くトーンを帯び始める」。「かれらはこぞって――プロテスタント自由主義神学者たちがイエスの死後の『キリスト教の頽廃』を語る語り口と呼応しながら――」、仏教の堕落を嘆く。
「ほんらいはヒンドゥー=バラモン教という迷信的宗教に取って代わり理性的な道徳を打ち立てようとしたブッダの意図が後継者たちによって台なしにされ、ついにはあらゆる迷信と偶像崇拝の権化へと化してしまった」と。
これって、私もそう思ってた(思ってる?)し、ブログでもそう書き散らしたし、昨今の日本の“本当の仏教”ブームでよく言われる話と、まるっきり同じだ。
最初「阿弥陀さまが救ってくれて極楽に行ける」みたいなのが仏教だと思っていて、現代合理主義の子としてはそんな話をとうてい信じられなかったのが、初期仏典を読んだりして“お釈迦さまが説いたのはこんなに理性的で合理的なことだったのか”と感動して、それに乗っかった――この、自分の体験のリアリティは捨て難い。
ただ、“本来の仏教”VS“堕落した仏教”という
中2病のような捉え方は、もうやめようと思った。
19世紀ヨーロッパ人の尻馬に乗るのは悔しいし。
<仏教>の誕生は1820年代!(『新アジア仏教史02』)
<仏教>Buddhismという言葉を、いつ誰が使い始めたのか?
驚いた。ヨーロッパ人(一説にはフランス人)が1820年代にはじめて命名したという。
しかも、その<仏教>の中心にお釈迦さまがいる、ということも、つい200年前まで全然当たり前のことじゃなかったというのだ。
『新アジア仏教史02 仏教の形成と展開』第1章「近代仏教学の形成と展開」(著:下田正弘先生)にその経緯が書いてあって、激しくエキサイティングだった(青字は同書からの引用)。
“初期仏教”の研究は19世紀ヨーロッパで始まった、ということは聞いていたけれど、<仏教>という概念そのものが、そのとき登場したとはびっくりした(仏教業界の人なら知ってるのかもしれないけど)。
チベットやスリランカや中国や日本は、長い間それぞれに信仰していたものを、自分たちで「仏教」という一つの概念で捉えたことはなかったのだそうだ。言われてみれば――お釈迦様の呼び名が各地で違ったり、阿弥陀や観音を信じてたり、護摩を炊いてたり、公案やってたり、バラバラなそれらが「同じ宗教だ」と、当人たちは気づかないかもしれない。
ヨーロッパ人もなかなか気づかなかった。
仏教らしきものを最初に記述したのは、マルコ・ポーロ(1254~1324年)だという。敦煌で出会った中国人仏教徒の様子や、スリランカにおけるブッダ理解(王子が老人や死者と出合って出家して云々)を記述しているのが、最も早いそうだ。
「宣教師や商人、のちには植民省の高官としてチベット、タイ、ビルマ、スリランカ、日本にまで赴いたヨーロッパ人たちは、赴任の地においてさまざまな形態をした宗教に遭遇した。それにもかかわらず、アジアに散在するこの宗教を同じカテゴリーで認識しようとするものは容易に現われなかった」
しかも、その中心に「インド」の「お釈迦さま」を据えようとは、思いもよらなかったという。なぜなら、当時のインドではもう仏教は廃れていたから。
17~18世紀にチベットやスリランカに入ったキリスト教の宣教師たちが、その地で信じられている宗教(=仏教)の情報を収集しはじめ、1820年代前後に「仏教」という言葉が誕生する。
けれども、捉え難い仏教について、トンデモ説がいろいろ浮上したそうだ。
「17世紀から19世紀のヨーロッパにおいて、ときに仏教が北欧神話伝説と結びついてキリスト教伝播以前のヨーロッパ古代宗教と考えられ、ときにはるか過去に袂を分かって東洋までさまよい出たキリスト教徒のなれの果てとみなされ、あるいはバラモン教よりも古い時代のインド原始仏教として想定され、さらに起源の釈迦という歴史的人物にまで至りつきながらもこの開祖がエチオピア人であるとみなされた(以下略)」
お釈迦さまがエチオピア人!?
「その中心に歴史的人物としてのブッダが立てられたとき、だが、この多年にわたる謎は氷解」して、西洋人はそれまで観察してきた一連の現象に「<仏教>Buddhismという呼び名を与えた。ここに<仏教>は誕生した」
誰が<仏教>と言い始めたのかについて、ロジェ=ポル・ドロワ(フランスの仏教研究者)によると、「<仏教>Buddhismという言葉の創始者はミシェル=ジャン=フランソワ・オズレーである。1817年に出版されたわずか100ページに満たない小冊子『東方アジアの宗教の開祖ビュッドゥあるいはブッドュにかんする研究』に、この<仏教>は登場する」
そして、
「仏教」という言葉が誕生じてまもなく、まだ文献学的研究がほとんど皆無だった1820年代に、ウジェーヌ・ビュルヌフ(フランス、1801~52)が『インド仏教史序説』(1844年)で初めて仏教の全貌を描く。(近代仏教学の父、と呼ばれる)。
つまり、私たちが持っている「仏教」の常識や、お釈迦様のイメージは、近代ヨーロッパ人の眼を通して構築されたものだった、とも言える。
そのことが、例えば現在もよく言われるセリフ――「今ある仏教は、本来の仏教と違う、堕落している」――という捉え方にも繋がっているという。
(続きは後日)

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密教のヤンキーっぽさについて
昨日、「ブッダのボディガードだった執金剛が、大日経では準主役に躍り出た」ということを書いた。執金剛は武器を持った武闘派ボディガードだ。なぜ彼は大出世したのか?
如来や菩薩は、裕福な商人階級とかインテリっぽい人が信仰していたのが、密教でニューキャラクターとして登場した執金剛は、それまでと違う非インテリ層が信仰していたのでは・・・と南直哉さんは言っていた。
それで、密教の専門家である田中公明先生が書いた『新アジア仏教史03 仏典からみた仏教世界』7章「儀礼、象徴、テキスト」を読み直したら、おもしろいことが書いてあった。
大日経以前の初期密教時代に、信徒の3つの願望に対応する儀式があって、それぞれ仏・菩薩・金剛手が効験あり、とされていたという。
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1)息災(シャーンタ。自然災害や疫病・飢饉の除去など国家や家庭の安泰を祈る)
・・・・仏部が効験あり
2)増益(パウシュティカ。五穀豊穣や商売繁盛)
・・・・蓮華部(菩薩)が効験あり
3)調伏(アビチャーラカ。仏教の敵対者を折伏する。実際には教団や信徒の敵を呪う)
・・・・・金剛部(金剛手)が効験あり
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想像するに、信徒さんたちから「あいつを呪い殺したい」などの要望が出るのは自然なことだ。それを如来や菩薩に頼むのは変だけれど、武闘派の執金剛ならイメージぴったり。
当時、商人・インテリ階級が没落してきて、気が付けば土着的レッドネックにはヒンドゥー教ががっちり食い込んでいる。仏教もそういう人を取り込まねば、というなかで、執金剛がフューチャーされるのはわかる気がする。
私の独断なのだけれど、
密教ってどことなくヤンキーっぽいじゃないですか。
密教独自の「不動明王」にしても、
金剛=ヴァジュラvajra=伐折羅(バサラ)大将にしても。
密教法具はクロムハーツぽいし、マントラは「夜露死苦」っぽい。
それまでの仏教がスガシカオ止まりだとしたら、密教はEXILEまで取り込んだ、とでも言いましょうか。
香川県丸亀市の「婆娑羅まつり」
これはケナしているわけではなくて、
現代でもヤンキーに愛されないと、広く普及はできないわけで、
密教がチベット・ネパール・日本などで現代まで生きのびているのは
そのへんが勝因だったのかな、という気もする。