アメリカでユダヤ教を抜いて仏教が第二の宗教になる?
仏教書の出版社・サンガから新刊案内が来る。
ちょっと面白そうだったので、まだ読んでないけれどコピペ。
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サンガ新書
『目覚める宗教- アメリカに出合った仏教─現代化する仏教の今』
発売日:2012年11月27日
ケネス・タナカ [著]
定価:本体857円+税
ISBN978-4-905425-28-1 C0215
http://www.samgha.co.jp/
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目次
第一章 アメリカで劇的に伸びる仏教人口
「瞑想するアジアのカルト」から「アメリカの一宗教」へ
アメリカの宗教として定着する仏教
仏教人口を広げる「仏教徒」ではない人々
第二章 アメリカが仏教に出会う
なぜ今、アメリカ人は仏教に魅了されるのか?
アメリカ仏教一五〇年史
戦後、アメリカ化する仏教
第三章 仏教がアメリカに出会う
仏教の本質を問い直すアメリカ仏教
アメリカ仏教の五つの特徴
1.平等化─あらゆる差別を撤廃して
2.プラクティス(行)中心─メディテーション中心の仏教
3.社会参加─エンゲイジド・ブディズム
4.超宗派性─宗派を越境する
5.個人化宗教─実践重視の帰結
第四章 目覚める宗教としての仏教
現代アメリカと仏教
宗教パラダイムの変換
自由近代主義と仏教の共通点
アメリカ仏教の問題点
第五章 現代社会の心の問題に応える仏教の心理学的アプローチ
心理学と仏教
心理学と仏教の展開
「目覚め」と「実現」の融合
第六章 アメリカで進む科学と仏教の対話
科学と仏教
第七章 二十一世紀─
グローバル化する世界での仏教の役割
西欧先進国で急伸長する仏教
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アメリカでは近い将来、
新たな姿を現在のアメリカに現している。鈴木大拙、鈴木俊隆、ティク・ナット・ハン、ダライ・
あるいはアーチャン・チャー、マハーシ・
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アメリカの仏教人口はものすごく多い(300万人を超えたとか)とは
聞いていた。「ユダヤ教を抜いて第二の宗教となる可能性が高い」
とは驚いた。
著者のケネスタナカさんは、日系アメリカ人3世で浄土真宗のお坊さん。
少し前まで、アメリカ映画とか見てると
お寺なのに柏手手を打って音楽が銅鑼と尺八、みたいな世界だったが、
そういう東洋趣味とは違うフェイズに入っているのかもしれない。
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サンガ文庫『ブッダの聖地―
発売日:2012年11月27日
アルボムッレ・スマナサーラ [著]
定価:本体2,500円+税
ISBN:978-4-905425-30-4 C0115
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美しい写真とともにスマナサーラ長老が聖地で
ブッダの生涯を語っています。
本書の内容
第1章 聖地ルンビニー
第2章 聖地ブッダガヤ
第3章 聖地サールナート
第4章 聖地ラージャガハ
第5章 聖地サヘート・マヘート
第6章 聖地サンカッサ
第7章 聖地ヴェーサーリ
第8章 聖地クシナーラ
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単行本のときに立ち読みして、そのうち買おうと思っていたら
文庫になった。
聖地巡礼、行きたいなー。
後期密教のエロス大爆発(新アジア仏教史02)
ご存知のとおり、インドでの仏教は7世紀ごろからヒンズー濃度が高まって「密教」となり、後期密教ではかなり常軌を逸した性的儀礼が行われるようになって、結局、ヒンズー世界の中にメルトダウンしてしまう。
この、800年頃からあとの後期密教のことは、仏教
史などを読んでいても、忘れたい想い出のように駆け
足で触れるだけだったりするが――
『新アジア仏教史02 仏教の形成と展開』(佼成出版社)
の5章「密教の出現と展開」(種村隆元先生)では、
後期密教の性的儀式のことなどが
ばっちり書いてあって凄かった。
後期密教とは、「秘密集会(しゅうえ)タントラ」という隠微な名前の経典から、終末期の総決算的な「カーラチャクラタントラ(時輪タントラ)」あたりのことを指す。
最近の研究では、この時期の密教と、シヴァ教との密接な関係が明らかになってきたという。
たとえばヨーギニータントラの代表的な経典である「ラグサンヴァラタントラ」の3分の1もの詩節が、シヴァ教のいくつかの聖典からの借用であることが、アレクシス・サンダーソン(オックスフォード大学教授)によって指摘されているそうだ。
密教の入門儀礼「灌頂」(頭から水を注ぐ)が複雑化して、後期密教では9つの灌頂がある。同書では、9つの灌頂が説明されているが、これがまた高位の灌頂になればなるほどトンデモない。
たとえば7番目の「秘密灌頂」の手順を引用すると・・
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弟子は幕などで隔てられた人のいない場所で、自分のパートナーとなる女性を師に差し出す。この場合、弟子は師が金剛薩埵(さった)であると強く確信する。
次に師はマンダラの主尊と一体となり、弟子の差し出した女性の姿が空であると瞑想し、交接を行う。そして心臓から放射される光線により導かれてきた、ローチャナなどの女尊と交接している毘盧遮那仏などの如来を口から自分の身体に入れ、大貪欲により液体となり、身体の外に出て行くと観想する。
このようにして放出した精液を自分の菩提心と不可分であると強く確信し、目隠しをした弟子の口の中にその「菩提心」を落とす。弟子は毘盧遮那を初めとしたすべての如来が集まったものだと観想してそれを飲む。
そして、女性パートナー(般若)は服を脱ぎ、自らの蓮華(=性器)から滴を弟子の口に落とし、弟子はそれを飲む。
これが秘密灌頂である。
(同書より)
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師の精液を、如来だ如来だ~と思って、飲むんですってよ。
ここまでくると、やっぱり仏教とは別の宗教としか思えない。というか正気の沙汰とは思えない。
そんなこんなの儀礼のあと、弟子は入門のしるしとして、頭蓋骨で作った環や、人間の死体から調達した腸や髪の毛で作った聖紐などを与えられる。
チベットで信仰される
カーラチャクラ父母仏立像。和合中
なぜに仏教は最終段階で、エロス大爆発になってしまったのか?
密教は、長い修行をしなくても、自分の心を知って
大日如来と一つになれば瞬時に成仏できるので大変
結構なことだが、一方で修行の実感はない。
「その実感の強度を求めて、当時のインド社会の底辺で行われていたタントリズムの性的な儀礼へと急速に傾いていった」。
というようなことを、同書で津田眞一先生が書いていた。
ただし、仏教として性的儀式はいかがなものか、ということで、今のチベット密教では性的なことはやらないそうだ。

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最初の最初のお経が身にしみる
仏教にはとんでもない量のお経があるけれど、一番最初のお経はどれか。
もちろん『阿含経』が古くて、なかでも『スッタニパータ』が古くて、そのなかでも第4章と第5章が最初……なのだそうだ。『新アジア仏教史02』2章(並川孝儀先生)には根拠がいろいろ書いてあったけれど省略。学会で異論があるのかどうかは、わからない。
初心にもどるべく、
岩波文庫の『ブッダのことば』(=スッタニパータ)の
第4章「八つの詩句の章」(=アッタカヴァッガ)、
第5章「彼岸に至る道の章」(=パーラヤナヴァッガ)を読み直した。
最最初期のお経が文庫で誰でも読めるとはなんと幸せなんでしょう。
しかしまあ何度読んでも素晴らし過ぎますね。
今の自分にグサリとくる言葉が必ず見つかるもの。
ギスギスした俗世にあって、これが何の役に立つかとか、自分はあの人には負けてるがあの人よりマシだとか、あと何年仕事にありつけるだろうとか考えて、人間が限りなくセコくなっていく、そんな今夜の私を見透かしたようなお釈迦さまの言葉。
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第4章の10「死ぬよりも前に」より。
かの聖者は、怒らず、おののかず、誇らず、あとで後悔するような悪い行いをなさず、よく思慮して語り、そわそわすることなく、ことばを慎む。(850)
未来を願い求めることなく、過去を思い出して憂えることもない。(現在)感官で触れる諸々の対象について遠ざかり離れることを観じ、諸々の偏見に誘われることがない。(851)
利益を欲して学ぶのではない。利益がなかったとしても怒ることがない。妄執のために他人に逆らうことがなく、美味に耽溺することもない。(854)
平静であって、常によく気をつけていて、世間において(他人と自分と)等しいと思わない。また自分が勝れているとも思わないし、また劣っているとも思わない。かれには煩悩の燃え盛ることがない(855)
岩波文庫『ブッダのことば』 中村元訳
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近年、初期経典のパーリ註釈文献の研究が進んでいるそうで、この『スッタニパータ』の註釈文献『パラマッタ・ジョーティカー』の、なんと全訳が1980年代後半に、新装版が2009年に出版されている。付篇も入れるとなんと6巻もある。キリがないなあ・・・。