釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~ -30ページ目

「空」への道は険し・・・(『空と中観』その2)

シリーズ大乗仏典6 空と中観』(春秋社)を読み終わった。

中観の本は何冊か読んだけれど、だいたい眠いのはなぜ?

私の頭がついていってないからだと思うが

とはいえ、勉強になったので、ランダムにメモしておこう。



◆2つの真理!


二諦説(二真理説)――勝義諦と世俗諦、2つの真理があるということが、

ものすごく大事なことらしい。



・パラマールタ(paramattha、勝義)  最高の目的ないし対象

・サンヴリティ(samvrti、世俗)



ダブルスタンダードなら真理じゃないのでは?と思ってしまうが、

「諦satya」と「真理」はニュアンスが違うのかもしれない。



そもそも二真理説がなぜ提示されるのか。

それは、あらゆるものの無自性性を追求する空性論が

日常的な営為を破壊しかねない性質をもっているからである

(3章 岸根敏幸先生)



これは実感としてよくわかる。

概念が解体した「空」の世界にどっぷり入ったら、

それで毎日会社に行けるでしょうか?

地下鉄を見ては「なんだこれはー!!」となって乗り損ねるし、

「エイギョウアカジ」はただの音列に聞こえ、リストラされるだろう。


釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~
龍樹菩薩。若い頃はワルでした。



◆言葉にできないものを言葉にし続ける


「悟りは言葉にできないのです」で済ませる人を、私は胡散臭いと思う。

南直哉さんも、よく「南さんは言葉にこだわりすぎだ。悟りは言葉にできない」

と諭しにくる人がいるそうで、「言葉にできないなら黙っとけ!」と斬っていた。


そしたら、誰よりも言葉を疑った龍樹(ナーガールジュナ)さんが、

でも言葉は不可欠だと書いていた(青字は、第1章=斎藤明先生=より)。


よく知られるように、『中論』のナーガールジュナにとって

言語表現や言語習慣 ヴィアヴァハーラvyavahara)は

二真理説の中のサンヴリティ(世俗)と意味内容がほぼ重なる


<『中論』第24章・第10

言語表現にもとづかなければ、勝義は示されない。

勝義に至らずにニルヴァーナ(涅槃)は得られない> 


また、唯識派の『瑜伽師地論』の「菩薩地」にも。

「『菩薩地』もまた、諸法が本来的に言語表現しえない性質でありながら、

言語表現の不可欠な役割を以下のように語る。

<このように、言語表現されえない本質をもつ一切法に対して、

なにゆえ言語表現が適用されるのか。なぜなら、言語表現なしには、

その言語表現されえない法性は、他の人々に説くことも聞くことも

できないからである。

説くことと聞くことがないときには、その言語表現されえない

[法性の]本質を知ることができない。

それゆえ、聞いて知るために、言語表現が適用されるのである>


もし「言葉にできないのです」で済ませてしまったら、

瞑想中に光が見えたぐらいで「悟りだ」と舞い上がってしまうからね。



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「無我・無常」のイメージが少し変わった

朝日カルチャーセンターなるものに、初めて行ってみた。

下田正弘先生(東大教授)のお話をナマで聞いてみたかったから。

面白かった。

仏典を参照するような時間はない講座だけれど、

私のように木ばっかり見ている者が、森を見るには、よい機会だった。そのうち大乗仏教を好きになれるかもしれない。



朝日カルチャーは録音も禁止で、ネットとかで勝手に書いてくれるなという感じもあり、ほんのちょこっとだけメモ。

(※青字以外は自分語なので、なんか間違ってたら私のせいです)



テーマは「仏教における無と有 ―仏教の躍動性―」。

 無・・・無常、無我、空(cf.寂滅性)

 有・・・仏性、如来蔵(cf.豊饒性)



いわゆる“原始仏教”は、無い無いづくしのクールでダウナーな思想に見える(だから近代西欧では、仏教を「虚無」の思想だと捉えた)。

ところが、大乗仏教だと、みんなに仏性があります如来を宿してますというような、景気のいいアッパーな話になる。

対極に見える、この「無」と「有」は、どう繋がっているのだろうか?



ここで一つの図が示される。

細かいピースに分かれた日常の世界(衆生心)と、すべてが一つに溶け合ったような「全一的真如」(仏心)。



私が新鮮だったのは、下田先生が「無」を「一切の差別の解消」と表現されたことだ。

(黒人差別とかの差別じゃなくて、分節・区別・ピースに分かれた日常、という意味かと思う)



日常の世界では、私は私、あなたはあなた。私は、課長で父親でマンションを持っていて、こういうキャラで、腹筋が割れてるのが自慢です、と。じゃあ、どのピースが「私」なのか? どのピースも時間や状況と共に変わってしまう。どこにも「私」はいない、どこにも特別なピースはない。

すべてのピース・分節の、境界が溶けてなくなってしまうのが、無我で無常だというわけです。


それは、境界がない不足も過剰もない全一的な世界(真如)に繋がる。こう聞くと、「無」が「有」への展開が、スムーズに見えますよねぇ。




仏性とか如来蔵について、個々人の中にホモンクルスみたいなミニ仏が体育座りしているイメージを持っていたのだが、この講義を聞いてイメージが少し変わった。

もっと広い海のような。地下水脈のような。

地表にいっぱい小さい穴が開いていて、各自もぐってみたら、地下にとんでもなく広大で豊饒な海があって全部つながっていた。海は発酵してプツプツと気泡があって、それがみんな仏(如来の蔵)。すごい勝手なイメージですけれども。

嫌いだった如来蔵思想が、そのうち好きになるだろうか?



無我や無常にニヒリズムを見たのは近代西洋人の事情であって、実際に信じられてきた仏教には全くそんな文脈はなかった、と下田先生は言う。

ちなみに、上でちょっと触れた「図」は、『意識の形而上学――大乗起心論の哲学』(著者はイスラム学の井筒俊彦氏)に出ているそうだ。読んでみようっと。


しかし、仏教学の先生でもお坊さんでも、

人によって仏教イメージがめちゃくちゃ違うものだなあ。




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「空」で心静かになりますか?(『空と中観』その1)

「空」の使い方がわからない。みなさまにおかれましては、

自分の日常の、どういう場面でどうやって

「空だよね」といって心のゴタゴタを鎮めておられるのだろうか。



リリースされたばかりの『シリーズ大乗仏教6 空と中観』(春秋社)

を読み始めた。龍樹さんの本(現代語訳)や解説書をいくつか読んだが

どうも血肉化できない「空」「中観」が少しはわかるだろうか。



本日は第1章「中観思想の成立と展開」(著:斎藤明先生)のメモ。

青字は同書より引用



中論、中観派と言われるけれど、何が「中」かといえば、

「有」でもない「無」でもない、中道だ、というわけですよね。

龍樹さんは大乗で初めて固有名詞が知られる論師なのだけれど、

『中論』には般若系などの大乗仏典の名前は出てこなくて、

唯一出てくる経典名は「カーティーヤナ経」(パーリ相応部、

因果相応の15)。それはこんなお経だ。



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カッチャーヤナよ、<すべては有である>という。

これは一つの極端である。

また、<すべては無である>という。これももう一つの極端である。

如来はこれら二つの極端を離れて、中によって法を説くのである。



 (『阿含経典』筑摩書房、増谷文雄訳)

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今でも、「空=何にも存在しない」と誤解されがちだけれど、

龍樹さんの生きていた2~3世紀にも既にそういう誤解はあって、

空を非存在と誤解することを正す」のが

『中論』のポイントの一つだという。



空を正しく理解することには、煩悩の根元に巣くう

対象や事象の概念化(Prapañca 戯論)からの解放という

修行論上の意義があった



概念化(≒言語化)というのは、南直哉さんの言葉を借りれば

「人間の都合で決めただけ」ということだよね。



だから、日常生活の中でいちいち、

「それって世間の都合で決めただけだよね」と内心でつぶやくと

「空」を使うこと=概念化の解除=煩悩を吹き消すことになるのかな?



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『中論』第18章・第9



他によらず、静寂にして、概念によって概念化されず、

分析的思考がはたらかず、[種々に]異なった意味対象を

もたないこと、これが<真実>の特徴である」



同書の斎藤明先生訳

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たとえば、鏡を見たら、口の両脇に、なにか線状のものがあります。

「線」も概念だけど、さらにベタに「ほうれい線」という名前で

概念化されています。この線はババァの証拠ということで、半狂乱になって顔面マッサージしたりプラセンタ注射を打つのが煩悩の風景。

しかし、鏡を見て、これがババァの証拠のほうれい線だというのは、

「世間の都合で決めただけ=空だよね」と本気で思えれば、全然平気。

へえ~、これは「線」と呼ばれるもの?と、クスクス笑っておしまい。

そういうことなんだろうか、空の使い方は。



「壺」「牛」「雲」といった区分けも、こっちの都合で決めただけで、

ましてや「課長」「浮気」「いじめ」「衆院選」なんかは、

心底どうでもいい概念化だよね。ああ悩むだけ馬鹿馬鹿しい。

といって心安らかになるのが、空の血肉化なのだろうか。




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