「無我・無常」のイメージが少し変わった | 釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

「無我・無常」のイメージが少し変わった

朝日カルチャーセンターなるものに、初めて行ってみた。

下田正弘先生(東大教授)のお話をナマで聞いてみたかったから。

面白かった。

仏典を参照するような時間はない講座だけれど、

私のように木ばっかり見ている者が、森を見るには、よい機会だった。そのうち大乗仏教を好きになれるかもしれない。



朝日カルチャーは録音も禁止で、ネットとかで勝手に書いてくれるなという感じもあり、ほんのちょこっとだけメモ。

(※青字以外は自分語なので、なんか間違ってたら私のせいです)



テーマは「仏教における無と有 ―仏教の躍動性―」。

 無・・・無常、無我、空(cf.寂滅性)

 有・・・仏性、如来蔵(cf.豊饒性)



いわゆる“原始仏教”は、無い無いづくしのクールでダウナーな思想に見える(だから近代西欧では、仏教を「虚無」の思想だと捉えた)。

ところが、大乗仏教だと、みんなに仏性があります如来を宿してますというような、景気のいいアッパーな話になる。

対極に見える、この「無」と「有」は、どう繋がっているのだろうか?



ここで一つの図が示される。

細かいピースに分かれた日常の世界(衆生心)と、すべてが一つに溶け合ったような「全一的真如」(仏心)。



私が新鮮だったのは、下田先生が「無」を「一切の差別の解消」と表現されたことだ。

(黒人差別とかの差別じゃなくて、分節・区別・ピースに分かれた日常、という意味かと思う)



日常の世界では、私は私、あなたはあなた。私は、課長で父親でマンションを持っていて、こういうキャラで、腹筋が割れてるのが自慢です、と。じゃあ、どのピースが「私」なのか? どのピースも時間や状況と共に変わってしまう。どこにも「私」はいない、どこにも特別なピースはない。

すべてのピース・分節の、境界が溶けてなくなってしまうのが、無我で無常だというわけです。


それは、境界がない不足も過剰もない全一的な世界(真如)に繋がる。こう聞くと、「無」が「有」への展開が、スムーズに見えますよねぇ。




仏性とか如来蔵について、個々人の中にホモンクルスみたいなミニ仏が体育座りしているイメージを持っていたのだが、この講義を聞いてイメージが少し変わった。

もっと広い海のような。地下水脈のような。

地表にいっぱい小さい穴が開いていて、各自もぐってみたら、地下にとんでもなく広大で豊饒な海があって全部つながっていた。海は発酵してプツプツと気泡があって、それがみんな仏(如来の蔵)。すごい勝手なイメージですけれども。

嫌いだった如来蔵思想が、そのうち好きになるだろうか?



無我や無常にニヒリズムを見たのは近代西洋人の事情であって、実際に信じられてきた仏教には全くそんな文脈はなかった、と下田先生は言う。

ちなみに、上でちょっと触れた「図」は、『意識の形而上学――大乗起心論の哲学』(著者はイスラム学の井筒俊彦氏)に出ているそうだ。読んでみようっと。


しかし、仏教学の先生でもお坊さんでも、

人によって仏教イメージがめちゃくちゃ違うものだなあ。




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