「空」への道は険し・・・(『空と中観』その2)
『シリーズ大乗仏典6 空と中観』(春秋社)を読み終わった。
中観の本は何冊か読んだけれど、だいたい眠いのはなぜ?
私の頭がついていってないからだと思うが。
とはいえ、勉強になったので、ランダムにメモしておこう。
◆2つの真理!
二諦説(二真理説)――勝義諦と世俗諦、2つの真理があるということが、
ものすごく大事なことらしい。
・パラマールタ(paramattha、勝義) 最高の目的ないし対象
・サンヴリティ(samvrti、世俗)
ダブルスタンダードなら真理じゃないのでは?と思ってしまうが、
「諦(satya)」と「真理」はニュアンスが違うのかもしれない。
「そもそも二真理説がなぜ提示されるのか。
それは、あらゆるものの無自性性を追求する空性論が
日常的な営為を破壊しかねない性質をもっているからである」
(3章 岸根敏幸先生)
これは実感としてよくわかる。
概念が解体した「空」の世界にどっぷり入ったら、
それで毎日会社に行けるでしょうか?
地下鉄を見ては「なんだこれはー!!」となって乗り損ねるし、
「エイギョウアカジ」はただの音列に聞こえ、リストラされるだろう。
◆言葉にできないものを言葉にし続ける
「悟りは言葉にできないのです」で済ませる人を、私は胡散臭いと思う。
南直哉さんも、よく「南さんは言葉にこだわりすぎだ。悟りは言葉にできない」
と諭しにくる人がいるそうで、「言葉にできないなら黙っとけ!」と斬っていた。
そしたら、誰よりも言葉を疑った龍樹(ナーガールジュナ)さんが、
でも言葉は不可欠だと書いていた(青字は、第1章=斎藤明先生=より)。
「よく知られるように、『中論』のナーガールジュナにとって
言語表現や言語習慣 ヴィアヴァハーラ(vyavahara)は、
二真理説の中のサンヴリティ(世俗)と意味内容がほぼ重なる」
「<『中論』第24章・第10偈
言語表現にもとづかなければ、勝義は示されない。
勝義に至らずにニルヴァーナ(涅槃)は得られない> 」
また、唯識派の『瑜伽師地論』の「菩薩地」にも。
「『菩薩地』もまた、諸法が本来的に言語表現しえない性質でありながら、
言語表現の不可欠な役割を以下のように語る。
<このように、言語表現されえない本質をもつ一切法に対して、
なにゆえ言語表現が適用されるのか。なぜなら、言語表現なしには、
その言語表現されえない法性は、他の人々に説くことも聞くことも
できないからである。
説くことと聞くことがないときには、その言語表現されえない
[法性の]本質を知ることができない。
それゆえ、聞いて知るために、言語表現が適用されるのである>」
もし「言葉にできないのです」で済ませてしまったら、
瞑想中に光が見えたぐらいで「悟りだ」と舞い上がってしまうからね。