パーリ仏典ができるまで(『新アジア仏教史04』3章)
『新アジア仏教史04 静と動の仏教』(佼成出版)を読み始めた。
この巻は、スリランカ・東南アジア各国の仏教を、国ごとに概観している。
以下は3章「スリランカの仏教と歴史」(遠藤敏一先生)+αのメモ。
いま日本でも、いわゆる“ブッダの言葉”=“初期仏典”として
パーリ仏典が人気なわけだが、それはどうやってできたのか。
基本的なことを、ちょっとメモしておこう。
(単なるメモなので読んでも面白くないです)
スリランカ、マハーヴィハーラ
紀元前5世紀頃
お釈迦さまが自分の地方の言葉で話した
(マガダ語と各種方言?)
↓
お釈迦さまが亡くなった年に、弟子500人が集まって、
口頭で記憶を洗い出して丸暗記(第一結集)。
そこで使われた言葉が、後に「パーリ語」と呼ばれる
↓
紀元前4世紀頃(仏滅後100年超)
口頭でさらに洗い出して丸暗記(第二結集)
↓
教団が分裂、それぞれが三蔵をつくる
↓
<紀元前3世紀頃
口頭でさらに洗い出して丸暗記(第三結集 上座部の説)>
↓
紀元前3世紀
インドから上座部のマヒンダ長老が
スリランカに渡って布教を始める
(その前から比丘が来島してた可能性もある)
マヒンダ長老が最初に説いたのは、史書等によると
「小象跡喩経」(しょうぞうしゃくゆぎょう『中部』第27)、
「餓鬼事」(小部7)「天宮寺」(小部6)などとされる。
(因果応報っぽいお経)
↓
紀元前1世紀
スリランカ史上最悪の、12年続いた大飢饉。
お布施の食料もままならず、比丘は島中央部の密林や
インドに避難してしのぐ。
飢饉が終わって、比丘たちが首都に集まって法を読誦
↓
紀元前1世紀
はじめて仏典の書写が始まる(パーリをシンハラ文字で)。
飢饉で比丘が死んだり、他民族の侵略を受けて仏教が沈んだり
……という中で、仏典を暗誦(口頭伝承)できる比丘が減って
絶ち消える恐れがあるので、文字にしておこうと。
大寺派の比丘たちが、都を遠く離れたアルヴィハーラにある
窟院で、パームの葉(貝葉 ばいよう)に仏典を書き付ける
↓
(貝葉は、よくて200~300年しかもたないので、
現在まで何回も書き換えたはず)
↓
~4世紀頃
シンハラ注釈文献の制作
三蔵だけではよくわからないことの補足説明を、
口頭で語りついできたのを、シンハラ語に翻訳。
インドから伝わったものと、スリランカで制作したものがあるらしい
(アッタカター)
↓
5世紀
インドの注釈家ブッダゴーサがスリランカに渡る。
シンハラ注釈文献をパーリ語に翻訳
(シンハラ版の底本は残っていない)
ここでブッダゴーサ自身の仏教理解がかなり注入されて
上座部の思想となった、という説もある。
翻訳でない著書として『ヴィスッディマッガ(清浄道論)』
=上座部の教義を要約した大網書。
※パーリ仏典は独自の文字を持たないので
タイやミャンマーでそれぞれの文字で書写される
※1881年、ロンドンにパーリ聖典協会が設立されてローマ字表記される。日本の仏教学界も、あっ、そんなお経もあったよね、
といって猛烈に研究が始まる。
というわけで、
お釈迦さまの死後、400年間口頭で語りついだ
一部派(上座部)の伝承を、葉っぱに書き付けて、
注釈家の仏教理解も加わって・・・
素人としてはそれを“ブッダの言葉”と受け取るしか
ないのですけれどね。

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親鸞とファシズム(中島岳志先生の講演)
昨日の続き。
中島岳志先生の講演「三井甲之の日本原理主義と親鸞」
(12月14日@求道会館)。
戦前の国家主義者、三井甲之(や蓑田胸喜)は
なぜ親鸞に傾倒したのか?
しかも親鸞思想の中核に近づくほど、ファシズムのヤバい方向にいって
しまったのはなぜか?
もしかして親鸞思想の核に、ヤバさが潜んでるのではないか?
中島先生も若いころ悩んで親鸞にいったそうだし、
主催者は真宗系だから、他人事でないシビアな問いである。
メモをつくっておこうと思ったのだけれど、
私の手に負えそうにないのでやーめた。
そのうち本になったら、絶対おすすめです。
三井甲之が書いた文章を、年を追って引用したレジュメを頂いたのだが、親鸞思想に出あって信仰を深めてるうちに、
えーっ?そっち行っちゃうの?というのが積み重なって、
いつのまにか「祖国日本崇拝」に到達してしまうさまが壮絶だった。
「世界統一預言者親鸞」(1912年)とか「阿弥陀仏より祖国日本へ」(1916年)とか今見るとトンデモ本のようなタイトルの文章もある。
ちょっとだけわかりやすい例を出すと・・・
(※私が勝手にパッチワークしたので、間違いがあれば私の責です)
三井甲之と蓑田胸喜は、
マルクス主義の知識人を徹底的に叩いて教授職からひきずり下ろすという「永久思想戦」を展開した。
なんでマルクス主義がダメかというと、
「自力」で世界を変革しようとするからなんだって。
親鸞の「自然法爾」「絶対他力」――
あるがままの「自然」を全肯定して自然のままに生きるのが救済であって、合理的な社会変革のごとき余計な「計らい」をしようとするマルクス主義者は殲滅せねばならない!というわけだ。
無限の自然に溶け入ってひとつになる、という全一的真如っぽいイメージも、天皇の慈愛のもとにすべての日本人がひとつになる、というような今から思えばファシズムっぽいものに結びつく。
「一切の差別(しゃべつ?)はここに消え/のこる名はただ原理『日本』」(『日本及び日本人』1918年)
国家のような差別(分節)の最たるものが、なぜ消えずに残るのか、
今となっては首をひねってしまうが・・・。
中島先生の『考える人』(新潮社)での連載「親鸞と日本主義」は、
いずれ本になるのだろう。早く読みたいな。
このような講演を無料で聞かせてくださった
主催者の方と先生方に感謝します。

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「近代の優等生」としての親鸞(末木先生講演)
12月14日、本郷の求道会館で行われた講演は、とても面白かった。講師は末木文美士先生と、中島岳志先生。主催は、近角常観(ちかずみじょうかん 明治3年~昭和16年、真宗大谷派の僧侶)研究会。
まずもって、会場の求道会館が素晴らしかった。近角常観が開いた仏教道場で、教会みたいな造りだけれど“祭壇”にましますのは阿弥陀如来。明治以降、たくさんの“インテリ煩悶青年”たちがここに通って、涙ながらに親鸞―阿弥陀仏に救済を求めたそうだ。
末木文美士先生の講演のテーマは「近代仏教―構造と思想」。
いま私たちが持ってる仏教のイメージが、19世紀ヨーロッパの近代イデオロギー(平等、合理的、個人の信仰、ロマン主義、etc.)の影響をかなり受けたものだ、ということを、いろいろな観点で話された。
特に面白かったのが、「近代の優等生としての親鸞」というお話。
今でも日本では、親鸞が異常に人気があるけれども、
明治以降に、近代イデオロギーのバイアスがかかった形で
親鸞が理想化されてきたのだという。
現実には「ほとんど無視して差し支えないマイナーな存在」だった親鸞が、「江戸時代における浄土真宗の定着を基盤に、近代になって、それまでほとんど顧みられることのなかった『歎異抄』の流行を手がかりに、親鸞の思想が大きく注目されるようになったのである」と、末木先生は著書『仏典を読む』(新潮社)で書いていた。
反権力的で、民衆の味方で、悪人正機で、呪術的でなく、個人で信仰を貫いて・・・といった親鸞イメージ(鎌倉新仏教イメージ)は、近代イデオロギーの中で「良い」とされることを全部仮託する形でできあがってきたのだという。
その象徴的な例として末木先生が挙げたのが「玉日抹殺」。
親鸞の妻として知られるのは恵信尼だけれど、実はその前に玉日という妻がいた、という資料もある(『親鸞聖人御因縁』)。ところが、明治以降の親鸞の“実証的研究”は、玉日との結婚は創作だとして無視されてきたそうだ。そこには、親鸞は生涯一人の妻と添い遂げてほしい、という「近代的一夫一妻主義」のバイアスがかかっている、と末木先生は言う。
面白いことに、明治以降、親鸞に傾倒した人は、スーパー右翼からマルクス主義者まで幅広くいた、ということだ。
続く中島先生の講演は、右ウィングのかなりヤバイ人、三井甲之の親鸞信仰についてのエキサイティングなお話だった。
(続きは後日)

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東大近くにある求道会館。内部公開日もあるのでぜひ。