貸したお金を踏み倒されても笑っていられるか(『大乗起信論』その2)
『大乗起信論』のメモのつづき。
大乗仏教は、どんどん悟りまでが短く楽になっていく歴史、と私には見えるのだが、『大乗起信論』は違った!
修行はすっごく大変、頑張れよ、と書いてある。初期仏典と同じぐらいの修行メニューがあげられていて、けっこう意外だった。
最後に専修念仏=念仏だけでいいコースも出て来るのだが、“心が弱くて修行に挫折しそうな人向けの、とっておきの方法”と書いてある。そりゃそうだよね、と思った。
修行メニュー(修行信心分)は、<信心・四種>と<五門の修行>が詳しく書いてある。<五門の修行>=施門、戒門、忍門、精進門、止観門=は、どれもすごく実践的なのだけれど、なかでも身につまされた一部の現代語訳をメモしておこう。
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◆施門(布施門)
・財施
どんな人であれ、もしもわが家に来て、乞い求める者があったならば、ある限りの財物を、その力に応じて分ち与え、おのれの慳貪の心を捨てて、その人を喜ばせよ。
・ 無畏施(=相手の恐怖を取り除く)
・ 法施(=人のために法を説く)
決して自己の名誉・利益を求めたり、相手からの恭敬を要求してはならない。ただひたすらに、自己と他者のために役立つことを念じ、その功徳をさとりに向け直す(廻向菩提)からである。
◆ 忍門(忍耐門)
他人から悩まされた場合、それに耐えて、決してその人に報復しようと心に思ってはならない。つねに利益と損害、不名誉と名誉、称賛と誹謗、苦と楽などの、いかなる世間的評価に対しても心をわずらわせずに耐えるべきであるからである。
『大乗起信論』(岩波文庫、宇井伯寿・高崎直道訳注)より
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特に「財施」ね。できますか、これ?
「空」とか「無差別(しゃべつ)」が、いちばん直接的に心の平穏に結びつくのは、「自分・自分のもの」という概念を捨てる、自分と他人の区別が消滅する、せめて弱まる、ということだと思う。
そこで私が勝手に試金石と思ってるのが、「貸したお金を踏み倒されても、ニコニコしていられるかどうか」。これはかなり難しいですよね。相手がパチンコですって、また借りにきて、礼ひとつ言わない・・・としても、自他がなければ腹が立たないはず。
私はうっかりお金を貸しがちで、諦めもそこそこ早いのだが、浪費に使われたりエラそうにされるとムカッとくる。ムカッとくるのは、「有意義に使うなら」とか条件付けをしていて、自分の「善意」に執着があるからで、全然ダメじゃん、と思う。
「財施」は貸すどころかあげちゃうのだから、もっと難しい。
正直いって、無理。
禅に興味がなくても・・理屈ぬきで面白かった「白隠展」
渋谷・Bunkamuraでやってる白隠展に行ってきた。
土曜日のわりに、わりとすいてて、ゆっくり見ることができた。
禅画や白隠禅師に特に思い入れはないけれど、文句なしに面白かった。
お釈迦さまや観音や達磨さんや布袋さん・・・いろんな表情を見てるだけで、もうね、可愛いしファンキーだし、
一人でクスクス笑ってしまった。
たとえば観音さまはどれも同じ表情で同じようなポーズなのだけど、
どう見ても酒が強そうだよね。
スナックにこういうママいるよね。
<蓮池観音>個人蔵 クリックで拡大します
美術評論家の山下裕二さんによると、
白隠の絵は独学で「誰の影響も認められない」とか。
誰の影響も受けない表現ってありえるのか、と驚くけれど、
たぶん本当の天才だったのだろう。
禅に興味はなくても、美術とかマンガが好きな人はきっと楽しめる。
禅→ミニマリズム→ジョブズとアップル製品 みたいな一面的な連想もブッ飛びます。
http://www.bunkamura.co.jp/museum/exhibition/12_hakuin/index.html
2012年12月22日(土)-2013年2月24日(日)
*1月1日(火・祝)のみ休館
★2013年1月22日(火)より、一部作品の展示替え
渋谷 Bunkamuraザ・ミュージアム
(以下はHPより)
江戸時代中期の禅僧であり、大量の書画を遺した白隠慧鶴(はくいんえかく)(1685~1768)。500年に一人の英傑(えいけつ)として讃えられ、現在の臨済宗の僧侶たちの系譜をさかのぼれば、すべて白隠に行き着くほどの重要な存在です。
白隠は80余年の生涯を民衆教化に捧げ、その手段として大量のユニークな書画を遺しましたが、それらは各地の寺院や個人コレクションを中心に散在しており、一般観客の目に触れる機会はこれまで稀でした。本展では40数カ所の所蔵者から大作を中心に約100点を厳選し、質、量ともに史上最高の白隠展となるでしょう。

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ハッピー真如(『大乗起信論』その1)
『大乗起信論』(岩波文庫、宇井白寿・高崎直道訳注)を読んでみた。
インドの馬鳴(めみょう 1~2世紀)作とされながら原典がなくて、
漢訳しかないので中国で書かれたかもしれず、
5~6世紀頃成立したと見られているそうだ。
そんな出自不明の書だけれど中国・日本の仏教に多大な影響を与えた。
これについての本や論文も膨大にある。
“初期仏教”好きの私は、『大乗起信論』を敬遠していたところ、
読んでみたら意外と面白かった――なんてラフな言い方は怒られそうだけど。
特に、最後の実践修行編は、今でも、ほぼそのまま使えると思った。
この書のキーワードである「真如」。
私・他人とか空・海・山とかの仮の区別がなくて、無差別平等で、
生まれも滅しもせず、この世界にあまねく満ちていて、
すべての根源である真如。
もちろん目には見えないし、証明不可能なもので、
世界についてのひとつのアイデアだ。暗黒物質みたいなものか。
「真如」という世界観を信じられたら、幸せだろうなと思う。
真如がある、という言い方は変だけれど、
なにかそういう完全に円満な次元があれば心が落ち着きそう。
自性清浄・・・人は本来は清らかなんだけど、煩悩で汚れてるだけ、
というお話も、しきりに書かれている。
これも証明不可能なアイデアだから、気に入れば信じればいいと思うし、信じられたらハッピーだとも思う。
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以下は、同書からの引用
(現代語訳)
第一門 心の真実のあり方(心真如)
<心の真実のあり方>(心真如)とは、すべてのものの共通の根元(一法界)、その全体に通じるすがた(大総相)であり、また、種々の教えの本体(法門体)である。すなわち、それは心の本性(心性)が、(生滅変化を超えて)不生不滅である点をさす。
[離言真如]
けだし、すべてのもの(法)、[すなわちわれわれの意識の対象としてあらわれる現象]は、ただ誤った心の動き(妄念)によって種々の異なった相(すがた)をもって現われている。もし人がそのような[ 誤った]心の動きから離れられれば、あらゆる対象の[異なった]相は性消滅するであろう。それ故、あらゆるものは本来、言葉で[ 種々に]表された相を離れ、認識をおこす拠り所としての相を離れており、徹底して(無差別)平等であり、変化することもなく、破壊することもできない。
ただ、これすべて、心そのもの(一心)であるから、これを[心の]<真実なるあり方>(真如)と名付けるのである。
(漢文書き下し文)
心真如とは、即ち是れ 一法界にして、大総相、法門の体なり。謂う所は、心性は不生不滅なり。一切の諸法は、唯だ妄念に依りてのみ差別有るも、若し 心念を離るれば、則ち一切の境界の相無し。是の故に、一切法は、本より以来 言説の相を離れ、名字の相を離れ、心縁の相を離れ、畢竟平等にして、変異有ること無く、破壊すべからず。唯だ是れ 一心のみなれば、故らに真如と名づく。
一切の言説は仮名にして実無く、但だ妄念に随うのみにして、不可得なるを以っての故に。真如と言うも 亦 相有ること無く、言説の極、言に因って言を遣るを謂う。この真如の体は、遣るべきもの有ること無し、一切法は悉く皆真なるを以っての故なり。亦立すべきもの無し、一切法は皆同じく如なるを以っての故なり。当に知るべし、一切法は説くべからず、念ずべからざるが故に、名づけて真如と為すのみ。