ハッピー真如(『大乗起信論』その1)
『大乗起信論』(岩波文庫、宇井白寿・高崎直道訳注)を読んでみた。
インドの馬鳴(めみょう 1~2世紀)作とされながら原典がなくて、
漢訳しかないので中国で書かれたかもしれず、
5~6世紀頃成立したと見られているそうだ。
そんな出自不明の書だけれど中国・日本の仏教に多大な影響を与えた。
これについての本や論文も膨大にある。
“初期仏教”好きの私は、『大乗起信論』を敬遠していたところ、
読んでみたら意外と面白かった――なんてラフな言い方は怒られそうだけど。
特に、最後の実践修行編は、今でも、ほぼそのまま使えると思った。
この書のキーワードである「真如」。
私・他人とか空・海・山とかの仮の区別がなくて、無差別平等で、
生まれも滅しもせず、この世界にあまねく満ちていて、
すべての根源である真如。
もちろん目には見えないし、証明不可能なもので、
世界についてのひとつのアイデアだ。暗黒物質みたいなものか。
「真如」という世界観を信じられたら、幸せだろうなと思う。
真如がある、という言い方は変だけれど、
なにかそういう完全に円満な次元があれば心が落ち着きそう。
自性清浄・・・人は本来は清らかなんだけど、煩悩で汚れてるだけ、
というお話も、しきりに書かれている。
これも証明不可能なアイデアだから、気に入れば信じればいいと思うし、信じられたらハッピーだとも思う。
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以下は、同書からの引用
(現代語訳)
第一門 心の真実のあり方(心真如)
<心の真実のあり方>(心真如)とは、すべてのものの共通の根元(一法界)、その全体に通じるすがた(大総相)であり、また、種々の教えの本体(法門体)である。すなわち、それは心の本性(心性)が、(生滅変化を超えて)不生不滅である点をさす。
[離言真如]
けだし、すべてのもの(法)、[すなわちわれわれの意識の対象としてあらわれる現象]は、ただ誤った心の動き(妄念)によって種々の異なった相(すがた)をもって現われている。もし人がそのような[ 誤った]心の動きから離れられれば、あらゆる対象の[異なった]相は性消滅するであろう。それ故、あらゆるものは本来、言葉で[ 種々に]表された相を離れ、認識をおこす拠り所としての相を離れており、徹底して(無差別)平等であり、変化することもなく、破壊することもできない。
ただ、これすべて、心そのもの(一心)であるから、これを[心の]<真実なるあり方>(真如)と名付けるのである。
(漢文書き下し文)
心真如とは、即ち是れ 一法界にして、大総相、法門の体なり。謂う所は、心性は不生不滅なり。一切の諸法は、唯だ妄念に依りてのみ差別有るも、若し 心念を離るれば、則ち一切の境界の相無し。是の故に、一切法は、本より以来 言説の相を離れ、名字の相を離れ、心縁の相を離れ、畢竟平等にして、変異有ること無く、破壊すべからず。唯だ是れ 一心のみなれば、故らに真如と名づく。
一切の言説は仮名にして実無く、但だ妄念に随うのみにして、不可得なるを以っての故に。真如と言うも 亦 相有ること無く、言説の極、言に因って言を遣るを謂う。この真如の体は、遣るべきもの有ること無し、一切法は悉く皆真なるを以っての故なり。亦立すべきもの無し、一切法は皆同じく如なるを以っての故なり。当に知るべし、一切法は説くべからず、念ずべからざるが故に、名づけて真如と為すのみ。