親鸞とファシズム(中島岳志先生の講演)
昨日の続き。
中島岳志先生の講演「三井甲之の日本原理主義と親鸞」
(12月14日@求道会館)。
戦前の国家主義者、三井甲之(や蓑田胸喜)は
なぜ親鸞に傾倒したのか?
しかも親鸞思想の中核に近づくほど、ファシズムのヤバい方向にいって
しまったのはなぜか?
もしかして親鸞思想の核に、ヤバさが潜んでるのではないか?
中島先生も若いころ悩んで親鸞にいったそうだし、
主催者は真宗系だから、他人事でないシビアな問いである。
メモをつくっておこうと思ったのだけれど、
私の手に負えそうにないのでやーめた。
そのうち本になったら、絶対おすすめです。
三井甲之が書いた文章を、年を追って引用したレジュメを頂いたのだが、親鸞思想に出あって信仰を深めてるうちに、
えーっ?そっち行っちゃうの?というのが積み重なって、
いつのまにか「祖国日本崇拝」に到達してしまうさまが壮絶だった。
「世界統一預言者親鸞」(1912年)とか「阿弥陀仏より祖国日本へ」(1916年)とか今見るとトンデモ本のようなタイトルの文章もある。
ちょっとだけわかりやすい例を出すと・・・
(※私が勝手にパッチワークしたので、間違いがあれば私の責です)
三井甲之と蓑田胸喜は、
マルクス主義の知識人を徹底的に叩いて教授職からひきずり下ろすという「永久思想戦」を展開した。
なんでマルクス主義がダメかというと、
「自力」で世界を変革しようとするからなんだって。
親鸞の「自然法爾」「絶対他力」――
あるがままの「自然」を全肯定して自然のままに生きるのが救済であって、合理的な社会変革のごとき余計な「計らい」をしようとするマルクス主義者は殲滅せねばならない!というわけだ。
無限の自然に溶け入ってひとつになる、という全一的真如っぽいイメージも、天皇の慈愛のもとにすべての日本人がひとつになる、というような今から思えばファシズムっぽいものに結びつく。
「一切の差別(しゃべつ?)はここに消え/のこる名はただ原理『日本』」(『日本及び日本人』1918年)
国家のような差別(分節)の最たるものが、なぜ消えずに残るのか、
今となっては首をひねってしまうが・・・。
中島先生の『考える人』(新潮社)での連載「親鸞と日本主義」は、
いずれ本になるのだろう。早く読みたいな。
このような講演を無料で聞かせてくださった
主催者の方と先生方に感謝します。

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