「空」で心静かになりますか?(『空と中観』その1)
「空」の使い方がわからない。みなさまにおかれましては、
自分の日常の、どういう場面でどうやって
「空だよね」といって心のゴタゴタを鎮めておられるのだろうか。
リリースされたばかりの『シリーズ大乗仏教6 空と中観』(春秋社)
を読み始めた。龍樹さんの本(現代語訳)や解説書をいくつか読んだが
どうも血肉化できない「空」「中観」が少しはわかるだろうか。
本日は第1章「中観思想の成立と展開」(著:斎藤明先生)のメモ。
(青字は同書より引用)
中論、中観派と言われるけれど、何が「中」かといえば、
「有」でもない「無」でもない、中道だ、というわけですよね。
龍樹さんは大乗で初めて固有名詞が知られる論師なのだけれど、
『中論』には般若系などの大乗仏典の名前は出てこなくて、
唯一出てくる経典名は「カーティーヤナ経」(パーリ相応部、
因果相応の15)。それはこんなお経だ。
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カッチャーヤナよ、<すべては有である>という。
これは一つの極端である。
また、<すべては無である>という。これももう一つの極端である。
如来はこれら二つの極端を離れて、中によって法を説くのである。
(『阿含経典』筑摩書房、増谷文雄訳)
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今でも、「空=何にも存在しない」と誤解されがちだけれど、
龍樹さんの生きていた2~3世紀にも既にそういう誤解はあって、
「空を非存在と誤解することを正す」のが
『中論』のポイントの一つだという。
「空を正しく理解することには、煩悩の根元に巣くう
対象や事象の概念化(Prapañca 戯論)からの解放という
修行論上の意義があった」
概念化(≒言語化)というのは、南直哉さんの言葉を借りれば
「人間の都合で決めただけ」ということだよね。
だから、日常生活の中でいちいち、
「それって世間の都合で決めただけだよね」と内心でつぶやくと
「空」を使うこと=概念化の解除=煩悩を吹き消すことになるのかな?
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『中論』第18章・第9偈
他によらず、静寂にして、概念によって概念化されず、
分析的思考がはたらかず、[種々に]異なった意味対象を
もたないこと、これが<真実>の特徴である」
同書の斎藤明先生訳
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たとえば、鏡を見たら、口の両脇に、なにか線状のものがあります。
「線」も概念だけど、さらにベタに「ほうれい線」という名前で
概念化されています。この線はババァの証拠ということで、半狂乱になって顔面マッサージしたりプラセンタ注射を打つのが煩悩の風景。
しかし、鏡を見て、これがババァの証拠のほうれい線だというのは、
「世間の都合で決めただけ=空だよね」と本気で思えれば、全然平気。
へえ~、これは「線」と呼ばれるもの?と、クスクス笑っておしまい。
そういうことなんだろうか、空の使い方は。
「壺」「牛」「雲」といった区分けも、こっちの都合で決めただけで、
ましてや「課長」「浮気」「いじめ」「衆院選」なんかは、
心底どうでもいい概念化だよね。ああ悩むだけ馬鹿馬鹿しい。
といって心安らかになるのが、空の血肉化なのだろうか。