インド哲学宗教史2 ヴェーダの神様
インド哲学宗教史(2)
木村泰賢著作集1巻
インド思想の特徴=宗教と哲学が一体不離で進んできた。
宗教が合理的基礎を要求するに応じて哲学が生じ、
哲学が信仰の指南となって宗教が発達。
(ギリシア哲学とキリスト教のように、衝突しない)
第1編 ヴェーダ(神話)======================
インド最古の聖典。
雑然と伝わったマントラ(賛歌祭詞)を整理分類したり、
特定の家族で代々伝わったものを集録。
古代の祭式上、定まった聖典が必要となったためと思われる。
ヴェーダには4つの祭官に対応して4種類がある
1・リグヴェーダ(神を招請する勧請者用。のみならず4祭官に通じる基本聖典。韻文。BC13C界隈)
2・サーマヴェーダ(神徳を賛する詠歌者用。韻文)
3・ヤジュルヴェーダ(神の供養を司る祭供者用。散文。
BC1000~800年頃か。祭祀によって神を操作する、ブラフマナの先駆)
4・アタルヴェーダ(上の3つと異質。アタルヴァンという一僧族の、ご利益をもたらす呪法)
各ヴェーダが、それぞれ4つで構成される
A・サンヒター(本集)=神々への賛歌・祭詞・呪文
B・ブラーフマナ(祭儀書)=祭式の規定・神学的説明など
C・ウパニシャッド(奥義書)=宇宙万有の原理
D・スートラ=祭式のマニュアル。天啓経・家庭経・法経
※リグヴェーダ
もっとも原始的。すべて韻文。
インドアーリア詩人が東カブールや五河地方にいたときに
自然に対して歌った詩句を集積した最古の詩篇。
1017の詩篇、もとは口伝で延々伝えられてきたが、
近年になって10巻にまとめられた。
(2~7巻は、古代の有名な詩人と、その同族が作ったもの)
(その1)ヴェーダの神様========================
神話の起源とは・・・
「未開人種が宇宙万象にことごとく人間と同じような生命と心情を附して、
しかも人間より威力の勝れたものの所作に帰するところに起因する」
「その組成中には、民族の渇仰、畏怖、究理等の心情が入り(中略)」
→神話は人類の初期における宗教であり哲学である。
ヴェーダを知らずして、インドの宗教・哲学はわからない!!!!
(1-1)ヴェーダの神々
・ほとんどが天然現象の神格化。
下のような神々への賛歌がリグヴェーダである。
・日本やギリシャのように、神の親子・兄弟などの系譜がなくて、
個々バラバラで信仰される。客観的には多神教だが、信仰の形は一神教に近い。
・特にインドラは、インド国民の保護神ともいうべき絶大な人気。
戦う勇者。酒飲み。傍若無人。(先住民を制圧したアーリア人の象徴か?)
神さま人気ランキング(『ヴェーダ神話』by マクドーネル)
1位 インドラ(雷)、アグニ(火)、ソーマ(酒)
2位 アシュヴィン、マルツ(風)、ヴァルナ(司法)
3位 ウシャス(暁)などなど
4位 ヴィシュヌ(日)、ヴァーユ(風)などなど
5位 ヤマ(死)、パルジャヌヤ(雨)
※太陽神ドヤウス(ギリシャのゼウスと同語)のような影響も見られる
※後にシヴァと並んで中心格となったヴィシュヌは、ヴェーダ時代は脇役
仏像界きってのイケメン、京都・東寺の帝釈天)
バンコクのエラワン祠
タイ3日目
最終日はバンコクの主要な3つの寺院を回った。
◆ワット・プラ・ケオ(エメラルド寺院)
すごい! 金キラキンの極彩色の世界に、あっけに取られる。
エメラルド仏のいらっしゃるウボーソットは、台座も金キラキン、壁には天井まで壁画がびっしり。
隙間恐怖のような豪華ぶりは、息を呑むほかない。
トルコのトプカプ宮殿や、フランスのヴェルサイユ宮殿に近い世界だ。
超ゴージャス、ワット・プラ・ケオ
◆ワット・ポー
涅槃仏が好きな私が憧れる、黄金の巨大涅槃仏にやっと出会えた。
覚醒と諦念の果ての微笑みというか、とてもいいお顔。
いつかこういう表情の人間になるのを、人生の目標とすることを決意した。
◆ワット・アルン
渡し舟で行くというだけで、もう楽しい。
こちらも隙間恐怖のようにびっしり装飾で埋まった仏塔。
でも仏塔のてっぺん近くに鎮座するのは、エラワン(像)に乗った
インドラ神(帝釈天)である。
三島由紀夫の「暁の寺」を読んでみよう。
「リバー・クルーズ1時間400B」という客引きにそそられて、
チャオプラヤ川をオンボロボートでクルーズする。
学校帰りの子供たちが、制服を脱いで飛び込んで泳いでいた。
◆番外 エラワン祠
バンコク一番人気は、あのブラフマン!
バンコクの街中に、あまり仏(釈迦)はいない。
一番にぎわっているのは、サイアムスクエア駅近くの大きな交差点
(東京で言えば数寄屋橋交差点みたいな感じ?)にある、エラワン祠だ。
エラワンとは像だが、祭られているのは、なぜかブラフマン。
合格祈願や商売繁盛祈願などで、たくさんの人が花を捧げて、真剣に祈っている。
どうやら、ここがバンコクで一番、信仰を集めている場所のようだ。
ブラフマンといえば、バラモン教の天地創造神・唯一絶対神で、
お釈迦さまは「そんな神なんていないよ」というところから出発したのに・・・。
もちろん、唯一絶対神としてではなくて、単に現世利益をかなえてくれる
「効く神様」としての信仰だろうが、なんだか複雑な気持ちである。
で、エラワン祠のすぐ横(伊勢丹並び)にある2つのデカい祠は、
エラワン(像)とインドラ神。こちらも、みなさんひざまずいて真剣に祈っている。
民衆信仰としては、(バンコクにおいては)釈迦より、こっちのほうがイケてる、
といった感じ。
◆本日の疑問
・エメラルド寺院(&王宮)のようなゴージャスなものがなぜ造れたのか?
トプカプ(トルコ)やヴェルサイユ(フランス)は、帝国として植民地や周辺諸国から
収奪した富で建てられたはず。タイはそういう帝国ではないのに、原資はどこから?
・宗教は、個々の人の救済には結びついたと思うけれども、
国家や王が宗教を採用して、ゴージャスな寺を造ったり、自分の権威づけに使った
ことが、民草の役に立ったことは、歴史的に見てあるのだろうか?
・現世利益や呪術性や奇跡がない宗教を、信仰する人は、ほんのわずかなのでは?
つまり、お釈迦さまの考えたことは、ほとんど誰にも理解されてないのでは?
(だって、入滅後早々に神格化されて「ジャータカ」=前世物語とか
作られてしまうわけだし)
◆タイ旅行で考えたこと
日本の仏教が、釈迦本来の教えとかけ離れたものだ、ということを知って、
じゃあ上座仏教の国なら、「本来の教え」が生きてるのかな?と思ったら、
そんなことはなかった。
阿弥陀や観音や不動明王はいなかったが、エラワンやインドラやブラフマンがいた。
これらを指して「むしろヒンズー教である」と分析した学者もいるそうだ。
さらに「そんなことはタイ人には関係ない」と書いた本もあったが、
関係ないと言っちゃっていいのだろうか?
ひざまずく相手が、釈迦でもブラフマンでも、それは関係ないかもしれない。
けど、たとえばエラワン祠で「他の女に走った彼氏が、どうか戻ってきますように」
とお祈りしたとして、釈迦なら「その渇愛が苦しみのもとなのです」と考えるだろうが、
そんなこと言う仏・神は、ウケないわけで。
お釈迦さまは、けっこう孤独な思索家なのでは、という気がしてきました。
いつかスリランカにも行ってみたい。
でも、そういうこととは別に、タイはサイコー! また行きたい。
アユタヤ→バンコク
<タイ その2>
◆ 3日目
アユタヤの、オールド・ロッブリー川の外にある寺へ。
やっぱりアユタヤに泊まったのは大正解。
日帰りだと、中州内の寺しか回りきれない。
・ワット・ナー・プラメーン
仏像が金ピカで、宝冠ときらびやかな衣装をつけている。
仏と王様の同一視・・・。
隣の堂にある古い仏像(ドヴァーラヴァティー様式)は素朴でいい。
・ワット・チャイワッタナーラーム
今回のアユタヤ旅のベスト遺跡。
広い芝生の中に、かなり建物が残っている。リスや小鳥。
寺まで川沿いの道を走って、牛やヤギがいたりして、とてもいい。
・ワット・プッタイサワン
リアル寺の裏に遺跡。
お坊さんたちが、冷房の効いたお堂で新聞を読んでダラーっとしてたりして、
そんなに徳が高いように見えないんだけど・・・やはり高いんでしょうね。
◆ 夕方、バンコクへ
また乗り合いタクシーでバンコクに戻る。ほかの乗客はみんな白人。
・タイ式マッサージへ
・夜、繁華街のスクムウィット通りへ。
銀座が歌舞伎町になっちゃったような街で、歩道に露天が並び、
インド人、アラブ人、黒人、白人が入り乱れて大変な猥雑さ。楽しい。
Soi3だか5だかが、イスラム通りと化していてびっくり。アラブ料理屋が並ぶ。
通りで、スーツ姿の謎の白人男2人が、大声で、どうも聖書を朗読してるっぽい。
外国人客向けのレストランに入る。
中産階級風の白人の男連れと、見るからにナンパ待ちのタイ女性(ご商売?)が多い。
道に面したテラス席に、いろんな物売りが来る。
盲目の人は、一人カラオケで歌を歌って歩いている。
夜9時ぐらいになると、表通りに立ちんぼさんがズラリ。
Soi4の1画(ナナ・エンターテイメントプラザ)をのぞくと、
大音量でロックをかけているバーが並んでて、白人男がタイ女性をぶら下げて歩いている。
路上で、屈託なく「いくら?」と価格交渉している男女も。
おだやかなアユタヤと同じ国とは思えない・・・。
でもバンコクでも、危ない目にあったりボッタくられたりは一度もなかった。ほぼみんないい人。
◆ 本日の疑問
・バンコクの路上では、子連れや手足のない乞食を何人も見かけた。
タイの仏教界は、こういう人たちを救済する何かの働きかけをしてるのだろうか?
・上座仏教の教義的には、そういう現実的な救済(要は食べ物と金の援助)
をどう位置づけているのだろうか? それとも放置するのだろうか?
・在家で仏教徒である(=仏・法・僧に帰依する)とは、いかなる状態を指すのか?
何をして、何をしないのが「帰依」した証拠になるのか?
たとえば、
・もっとお金が欲しいから売春しているけど仏教徒
・貧しい家族を養うために売春しているけど仏教徒
・旅行者には倍額だとウソをつくけど仏教徒
・街の乞食を蔑んで素通りするけど仏教徒
・唯一絶対の神がいると信じているけど仏教徒
・来世は金持ちに生まれかわりたいけど仏教徒
というようなことは、どれがOKで、どれがOKではないのか?
・ タイでは人口の90何%が仏教徒、と表現されるけれど、どういう根拠なのか?
・私は毎日お酒を飲むけれど、仏教徒と名乗っていいのか?
(つづく)




