「聖地チベット展」はエロかった
上野の森美術館でやっている「聖地チベット展」を見てきました。
私が信じている釈迦の仏教とは、ほとんど別物の、
「仏教の極北」たる後期密教ですが・・・美術としては面白い!
おどろおどろしい、呪術的な、異形の神々が勢ぞろいです。
(仏というよりは、神々ですね)
そして、全体的にエロい。
例えば「カーラチャクラ父母仏立像」(14世紀)。
要するに、男と女がハメているセックス像です。しかも立ちハメです。
4つの顔に3つの目がある男と女が、
各24本の腕を絡ませあって、合体しておられます。
方便の象徴・女と、空の智恵の象徴・男が一体となることで
悟りへと導かれるんだそうです。
それから、女性神「ダーキニー立像」(17~18世紀)。
そのコケティッシュなポーズは展右勢と呼ばれ、
村上隆のフィギュアに近いものがあります。乳首もあるし。
ダーキニーは元はヒンズー教の神ですが人気のあるキャラだそうで、
セックスによって悟りを助けるそうです。
首からかけてるのは、なんとドクロを連ねたネックレス。
主食は人間の心臓です。
そういえば、オウム真理教の麻原は、自分の愛人たちの
ホーリーネームに、「ダーキニー」の名を入れていました。
あと「ヴィルーパ」というインドの密教修行者の坐像がありましたが、
この人がめちゃくちゃファンキー。
「太陽を担保に、飲み屋で飲みまくった」そうです。
◆お釈迦さまもびっくりだ◆
13世紀にインドがイスラム教に支配されて仏教が滅んだとき、
密教僧がチベットに亡命し、
チベットは正統な「密教後継者」になったわけです。
もしお釈迦さまに、「あなたが始めた仏教は、
最後はこんなふうになりました」と伝えたら、
お釈迦さまは失神するでしょう。
でも、チベット仏教美術は、見る分にはほんと面白いです。
教えの納得性が高いほど、仏像は面白くない、
というのは、仏教好きとして困ったことであります。
昨今の「フリー・チベット」ムーブメントで、
おしゃれ系の若者もけっこう来ていました。
チベット風アクセサリー売り場で、帽子をかぶった20代男性が、
「やっべえ、超クール」と言っていました。
「聖地チベット ポタラ宮と天空の至宝」
上野の森美術館 2009年9月19~2010年1月11日
http://www.seichi-tibet.jp/index.html
仏教と科学の接点Ⅲ カオス理論
「仏教と科学の接点3 カオス理論」
東京禅センター主催の花園大学公開講座のなかで
いちばんエキサイティングなシリーズ「仏教と科学の接点」の3回目。
(2009年10月17日・東大駒場キャンパスで3時間)
おなじみの佐々木閑先生(花園大学教授・仏教学者)がホストで、
今回のゲストは合原一幸先生(東大教授・数理工学者)です。
◆釈迦の考えた「私」のあり方はカオスに似ている
永続する実体としての「我」を否定した釈迦。
じゃあ、ここにいる「私」は何なのか?
釈迦は、無数の小さな要素の集合体、雲のような全体が「私」だと考えた。
要素が切れて有無消散した状態が、仏教の目指す「涅槃」である。
<われわれ生命体は、色=物質を基盤として、そこにひとつの心(認識活動の主体)と
40以上の心所=種種の精神作用が搭載され、心不相応行=エネルギーがそれらに
動的変化を与えるという形の「要素集合体」である。
その集合体は、刹那ごとに刻々と変化し続ける。それを時間と呼ぶ>
また、釈迦は、すべての現象はメカニカルに決まるという決定論で世界を捉えた。
でも、「私」が雲なら、そのどこに「業」のエネルギーは蓄えられるのか?
釈迦はそれについては述べなかったので、後の仏教者は頭を悩ませた。
◆決定論なのに複雑な動き・・・カオス理論
一見メチャクチャな動きをしているものには2種類ある。
・確率論的に動くもの(サイコロの目とか。1振り目と2振り目の間には何の関係もない)
・ロジスティック写像(実は、ひとつの公式に従ってメカニカルに動く)
ロジスティック方程式
X(n+1)=aX(n)(1-Xn) 0<a<4
時刻nと、時刻n+1の値は、この方程式のみで決まる。
(あたかも仏教の刹那と次の刹那の関係が、縁起でメカニカルに決まるように)
この方程式をグラフにすると、aの値によって不思議な動きをする(周期倍分岐)。
で、実際の現象(たとえば水の対流=お湯を沸かしたときに水がグルグル動くやつ)が、
この方程式とぴったり同じ法則で動いたので、研究者はみんなびっくらこいた。
この法則は、あらゆる現象に普遍的に見られる(ユニバーサルである)
このカオスを動画にしたもの(どういう理屈で動画になってるのか、よくわかんない)を
見せてくれた。水に漂うクラゲみたい、空中を飛ぶ羽みたい、タバコの煙みたい・・・。
ひとときも止まらずに、ゆるやかに動き続ける、複雑に見えてたった一つの公式で
動く不思議な動画・・・・釈迦のいう「私」とは、こういうものなのだろうか。
◆初期設定の小さな違いが、とんでもない差に
カオス理論には「バタフライ効果」というものがある。
初期設定のほんの小さな差が、時刻を追うごとに指数関数的に広がっていく。
(だから短期予測は可能だが、長期予測は不可能)
「予測可能性-ブラジルでの蝶の羽ばたきはテキサスでトルネードを引き起こすか」
(1972年のローレンツの講演タイトルに由来する)
◆仏教における「業」はバタフライ効果?
業(例えば悪いことをしたら獣に生まれ変わるとか)は、
どうやって因果でつながっているのか、仏教者は悩んだ。
→「三世実有」仮説
三世(過去・現在・未来)は、全部存在している。
存在しているから、過去の悪行・善行が、現在や未来に影響する。
→「でも、やっぱそれはおかしくね?」ということから、
因果でつながっていると考えるようになる。
これは、初期設定のわずかな違い(1回の盗みをする私・しない私)が、
時刻を経るにしたがって、やがてトルネードのような甚大な差
(地獄に落ちるとか)になって現れるようなものである。
しかも、その因果の法則は、恣意的なものや神が決めるのではなく、
法則でメカニカルに決まる。
これは、まさにカオス理論そのものではないか!!!!!!
今回も、またお釈迦さまのすごさを痛感したこの講座。
科学が進めば進むほど、「釈迦は正しかった」とわかるなんて、
いったいどういうことなんだ。恐るべき釈迦である。
タイムオーバーになってしまったので、
合原先生をもう一度ゲストにして、「フラクタル」の講義が行われることになった。
楽しみ!楽しみ!
「仏教と科学」のこのシリーズは、仏教学的にも科学的にもエスカレートして、
ほとんど誰もついてこれないハードコアな領域に入っていくことを期待します!
いっそ、1人2万円ぐらいとって、合宿とかやってくれないかな~~。
「ブッダ 大いなる旅路」①
「ブッダ 大いなる旅路」①インドー輪廻する大地
1998年にNHKスペシャルで仏教の大型特集(特に上座仏教)を
放映したことを知っった。
DVDを全部買うと高いので、NHK博物館(愛宕)に見に行った。
各地のNHKでは番組公開ライブラリーをやっていて、
無料で過去のNスペなどが見られるのだ。すばらしい。
見てみたら
この「ブッダ 大いなる旅路」シリーズは、かなりすぐれものだ。
第1回はインド。
お釈迦さまゆかりの地を訪ねながら、中村元訳のパーリ語仏典の朗読が
ところどころに入る。その言葉の美しいこと・・。
「見よ、すべてのものは燃えている。
欲望と怒りと愚かさによって」
クシナガラでついに入滅するとき、お釈迦様はこういった。
「私はなすべきことをなした。
再びこの世に戻ってくることはないだろう」
◆お釈迦さまもヒンズー教の神様!?
ヒンズー教の寺院に、お釈迦さまの仏像もあった。
ヴィシュヌ神がいろいろな人や動物に姿を変えて人々を救うのだが、
お釈迦さまは、なんとその「9番目の化身」として祭られてるのであった。
インタビュアーが「ヒンズーと仏教はどうちがう?」と聞いたら、
ヒンズー教徒のおばちゃんが「全く同じです!」と断言してた。
おばちゃん、それは違うんじゃなかい?
あと、いまだにバラモン教の祭官がいて、
一日中、365日、儀礼をやっていました。
◆そのまんまの上座仏教が残る「チッタゴン」
取材陣が、「釈迦時代の教えがそのまま残る地はないか」と探した結果、
見つかったのがバングラディッシュのチッタゴンという町です。
バングラディッシュは、いまイスラム教国ですが、
そのなかにひっそりと、仏教徒が生息しているそうです。
すばらしいシーンがありました。
村に寝たきりの病人がいて、家族がお坊さんを呼んで、お経をあげてもらう。
(ここでは生きているうちにお経をあげるそうだ)
そのお経の内容というのが、
「お釈迦さまはクシナガラで言いました。
人はこの世に生まれたら必ず死ぬ。
死の手から逃れることはできません」
すごくない? 死にかけてる病人の横で「必ず死ぬ」とお経をあげるんです。
これぞ仏教の真骨頂、ほんものの救いだと思います。
「必ず治る」なんていう、ウソでは救われない。
で、「今日はあなたの善行を思い出すために集まりました」といって、
家族・知人が、死にゆく人の過去の善行を思い出すのです。
お葬式では、遺体にすがって泣く親族を、周りが引き止めます。
「移り行くものに追いすがってはいけない」と言って。
行ってみたいな、チッタゴン。
あとで調べたら、この人たちはベンガル人で「バルア教徒」とも呼ばれるらしい。
「バルア」というのは姓で、この名前の人は、祖先が釈迦時代にマガダ国にいて
それ以来の仏教徒である(とされている)。
そういえば、前にいったヴェーサーカ祭(代々木)で、
仏教学者の方が「今日はバルアさんも見えてます」と喜んでおられた。





