ウパニシャッド
インド哲学宗教史ー4
木村泰賢著作集1-4
<奥義書 ウパニシャッド>============================
◆ウパニシャッドとは?
梵書時代の戦乱がおさまって、比較的強権の束縛が少ない
クシャトリヤの人々が思想に熱中する余地が生じた。
(ヤージュニャヴァルキアや、シャーンディールヤなど複数の哲学者)
リグヴェーダ時代の究理的傾向が、
ウパニシャッドにいたって明白に特質を発揮して
哲理の攻究に基づく大悟をもって解脱の唯一手段とみなすに至った。
ウパニシャッドとは=
梵書の最後にある「森林書」の最後のほうに書かれている哲学的な部分。
組織だったものでなく詩編(いろいろ矛盾もある)。
梵書の制作年がBC1000~7000年だとして、
ウパニシャッドの古い部分はBC700~500年ぐらいか。
秘教として秘密に扱われた。
(たとえば、1年間同居した直弟子しか伝えるな、長男しか伝えるな、など)
各ヴェーダにあるはずで、何種類かわからないが、通常11種とする(P234)
梵書の一部だからバラモン教の産物でありながら、非バラモンの端緒。
(王族がバラモンに教えるくだりなどが出てくる)
↓
推察するに、祭式主義にイヤケがさした少数の求道者(クシヤトリヤか)が
人生宇宙に関して真摯に探究しはじめた産物
(バラモンも王も庶民も女も、平等に議論するさまが登場する)
◆本体論(梵=我)
基礎観念「我は梵なり」→後に「個人我と大我=梵」
自我アートマンと、宇宙の太源ブラフマンは本性において同一である。
逆に言えば、自我を探求して宇宙の原理に至るべし、との教え。
・我の4位説 醒位、夢位、熟眠位、死位
(精神が外界から影響を受けない熟眠位が理想の境地)
・我の五臓説
◆本体の性質
・消極説
「聖者が本体と名づけるものは、粗ならず、短ならず・・・」と全部否定。
まとめて言うに「曰く非、曰く非」
本体は言及できないもので、非と言うしかない、という考え。(竜樹もこのあたりに起源)
・積極説
本体は実有・智識・妙楽
すなわち「梵は万有の最終実在で、しかもその主観の主体で、万人最高の帰趣なり」
・梵は時間・空間・因果以上の絶対的実在で、経験的立場からすると「非」としか言えず
語ることも考えることもできない。すべての純粋原理
・人格神=世界の創造支配者、人間の運命を握る神として語っているところもある
◆本体と現象との関係
少しの違いはあるが、おおむねこんなイメージ
「蜘蛛(本体=梵)がその体から糸を出して網を張り、絶えず監視している」
◆輪廻思想と解脱
・インドに輪廻思想が起こったのは梵書の終期、ウパニシャッドで完成
・カルマ(業説)もウパニシャッド初期の哲学者ヤージュニャヴァルキアなどに負うところが多い
天(ヴェーダの神)から動物植物まで、あらゆるものに生まれ変わり、永遠に流転する。
↓
こんなつらいことはない=インド特有の厭世思想がようやく起こる→体は苦の器と明言するに至る
(厭世と輪廻は不可分)
↓
本性に安住して永遠の安楽を得る方法は解脱しかない
・ウパニシャッドの最終目標は解脱
アートマンが仮現的束縛を離れて、本性に安立すること
・解脱するためには、祭礼だけではダメで、苦行・慈善・不殺生・・・などの修行がいる
禅定、ヨガは、ウパニシャッド中期以降、もっとも重んじられた修行法
(本体を内部に求むべし、とすれば、外界を絶って内観に集中する法を選ぶのは必然的)
※このあたり、かなり仏教に近づいてくる
◆ウパニシャッドの矛盾
・「現実を憎むべき束縛と考える」ことと、「我と梵=万有が同一」と考えるのは、矛盾してる
(清浄なるアートマンが、憎むべき現実界を生み出すのはおかしい)
自我と現象の2元論をとれば簡単だったのに、ヴェーダ以来の伝統で1元論に固執したので
矛盾が生じた
<スートラ=バラモン教の経>===========================
・理論としてウパニシャッドが起こったあとも、
大勢としてはバラモン教の古風な形式主義が固執せられた
スートラ(経)という短文体で規定(法経・天啓経・家庭経の3種)
・カースト制もはっきり。
例えばバラモンの守護神はブラフマン、クシャトリャはインドラとヴァルナ、
ヴァイシャは一切神、シュードラはなし、とか(ひどい!)
・バラモンは最初「祈祷(ブラフマン)」を司るというのが語源だったが、
この時代になると梵(ブラフマン)の第一子だからバラモンと呼ぶ、と解釈され、
ヴェーダをつくった詩聖の末裔であるとされ、ほとんど生き神のようにみなされた。
・シュードラ(非アーリアの先住民)は神を礼拝することも許されず、
宗教的に救われることができない賎民とされる。
故意にヴェーダの声を聞くと耳を塞がれ、心に思い浮かべると身体両断される、
とある(ゴウタマ法典) ひどすぎる!!!!
・上位3族の人生の4時期
4番目の「遁世者」期は、かなり仏教とほとんど同じ
=釈迦は若くして4期をやったわけですね。
(比丘、沙門などと呼ばれ、髪を剃り乞食袋以外の財産を捨て、人の恵みものを食べる)
でも多くの人は、4期まで至らなかったようである。
・バラモンはほとんど毎日一生、祭祀をしていた。
人の一生は祭事のプログラムをこなす過程にすぎない、かのごとく。
専門の祭官が司る天啓的祭典と、家でやる家庭的祭典があり、ものすごく細かいプログラム。
祭官への布施(即位式には牛2万匹とか!)が書かれている(誇張もあるだろうが)
・ひとつの祭りをやるのに、4種類の祭官+助手3人で、計16人も必要だった
梵書の時代
インド哲学宗教史
木村泰賢著作集 1巻ー4
<梵書(ブラフマーナ)>
リグヴェーダとウパニシャッドを連絡するもの
アーリア人が五河地方から、ガンジス河流域に移動した時期(第2期)。
思想的には停滞して、祭儀が第一の目的であるがごとくに緻密に規定
するようになった。宗教も人生も祭儀の中に吸収する極端に陥った。
=バラモン教確立時代
※語源=ブリフ=「沸く・高まる」=祈祷によってトランス状態になる
ことから名づけた抽象語と思われる
気候風土が変わって、天然神への信仰が薄れた?
梵書=4ヴェーダ本典に併説した、儀式マニュアル。内容は雑然としている
(最古のものは、黒ヤジュルヴェーダ内で、本典内に出てくる。
併説した梵書はヴェーダ各派ごとにあったが、残っているのは17種類)
・わざわざ諸神を融合したりして人工的に作り出し、分類し、諸種の事象に配当する・解釈する
・祭儀の順序と宇宙創造の順序を同一視する
「思弁家の頭脳の健全を疑わしめるものもあるくらいである」(P189)
例)梵書中もっとも有名な「シュナシェーバ物語」は、国王即位のたびにバラモンが物語る規定で、
最後に「これを物語れるのはバラモンだけなので、布施として牛一千匹を要す」と。
バラモン、ひどいね。
◆梵書の哲学
創造神・唯一神として、ヴェーダからウパニシャッドへの推移をまさに。
はじめは生主(ヴァーダ末期のプラジャーパティ)
→中間は梵(ブラフマン) → 後期は我(アートマン)
「初めに生主(または梵、または我)のみありき」の3原理が並列で出てくる箇所も。
初期=生主
→しばらくして、たくさんの「原理」が競い起こった(原水・無・語など)
中期=梵(ブラフマン=祈祷。祭式祈祷で神を支配できるとの思想から、祈祷そのものを
原理とするに至った)
<梵は諸神を生みこの世界を作れり。クシャトリヤ種も梵より生じ、特にバラモン種は
彼自身より生ぜり(梵書より)>
梵我同一の思想に近いものも、梵書に現れる
「小宇宙の主体と大宇宙の主体は同一。現象界と本体界を結びつける通路は我にして、
個人のそれぞれのアートマンが梵に帰して同一我に没する」
終期=我(アートマン、自我の本性、真性実我 )
宇宙的原理と個人的原理は同一なので、梵を求めるに自己を通じる風潮が生じて、
我を原理と考えた
従来の哲学は、人間も客観界の一事象だったのが、ここで大転換が起こる。
「人間の主観的原理を通じて、宇宙の太源を見出さんとするに至った」
◆ なぜ「梵我同一」なんて思いついたのか
多少異なった道をたどって発達したものであろう。
梵は宇宙の原理として動しようのない名称となり、一方でアートマン思想が勢力を得るに
およんで、当時の神学者は両者をうまい具合に結び付けて、
「梵とは、実質的にアートマンだ」と説くに至ったのではないか。
◆ 輪廻説の起源
梵書時代に起源があると思われる(リグヴェーダにはなかった)。
「正確な知識で神事を行わないと、死後再びこの世に生まれて
しばしば死の餌食になる」(シャタパタ梵書。明らかに輪廻思想の芽)
梵書時代に基礎を固め、ウパニシャッドで骨組みができ、学派時代に完成。
以降、インドの共通思想となり、この問題の解決が、
すべての宗教・哲学の最終目的となった。
いろいろな国の土人に移生(死後、動物とかに生まれ変わる)信仰があるのに、
なぜインドでは輪廻説がこんなに発達したのか?
→ 定かではないが、木村説では、「アートマン」思想と結びついたため。
生命の本質であるアートマンは常住不滅なのなら、
死後もどこかに肉体の依拠先を求めなければならない。
そこに業説(犯した罪がなんらかの形で残留して罰を受ける)
これらが結びついた。下層信仰(移生)+上流の哲学的考察(アートマン)が結合して、
他国に例がないほどインドで輪廻説が固執的なものとなった。
唯一神の誕生
インド哲学宗教史ー3
木村泰賢著作集1巻-3
◆ヴェーダにおける神と人の関係
主として親子で、これに関連して親戚・朋友・まれに君臣の態度
神も人も似たものである
↓
・饗応政略を用いて神を利用するという宗教的堕落を招いた
・一方で、人は元来神性を具有するという前提から、
一切衆上生悉有仏性的な信仰を生じるもととなった。
◆祭式・呪法
供養で神々の関心をかう、功利主義的な側面がある。
ex.リグヴェーダのインドラ曰く「供養しないものはすべて戦場で打ち殺すものなり」
リグヴェーダ時代は「信念なしには供養は効かない」という側面があったが、
後年のヤジュルヴェーダ、ブラーフマナにかけて、儀礼によって神を利用する
祭式中心の宗教となる。
(ヤジュルヴェーダには祭官の一挙手一投足に規定があり、
バラモンの祭式がこのあたりで完成したといってよい)
・通常は家長が仕切り、ときには祭官に依頼した
・悪魔退散や、他人に呪いをかける、モテる、賭博に勝つなど、さまざまな呪文があった
◆死生観
アス(生気)とマナス(霊魂)。
死後に天界で、まずヤマ(死界の王)の裁判を受ける(仏教時代のヤマ天と閻魔に発展)
地獄の思想があったかどうかは定かではない。
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<ヴェーダの哲学思想>
◆一神教、万有神教の芽生え◆
ヴァーダの末期
アーリア文明が五河地方から中国地方に移った時期。
自然信仰もやや固定化し、少数の詩人が内面的に整調しようと試みた。
(多数の神々を統一する原理=唯一神をつくりだした)
例)リグヴェーダ10巻の、通称「創造賛歌」
従来の自然神の上に、最上唯一の原理を立て、抽象神として命名(造一切主、原人など)
→万有神教、一神教的な要素の誕生。これは非常に大きな哲学的な転換点である。
(同時に、自然神への懐疑=インドラなんて存在しないよ、とか。)
さらに、「詩聖らは唯一の有を種々に名づけたり」=諸神は、実は同じ唯一神である、と。
※「人間至奥の要求として、思想の進むに従って必ず最後の統一を欲するものである」(P137)
インド哲学の特質たる「万有神教」の原理が明白に現れる(例:アディティ=無限)
◆宇宙観 ◆
リグヴェーダ10巻の、通称「創造賛歌」は、哲学的に宇宙の発生を考察している
・宇宙の太源を唯一とする
・万有の生起は、その唯一の太源から発展したとみる
(唯一神が高いところにいて世界を つくったのでなく、
自身が発展して現象界になった)・・・・万有神教というより、むしろ万有在神論
・万有が発展したあとも、太源自体は動じないとみる
創造賛歌=無有歌・生主歌・造一切歌・祈祷主歌・原人歌の6篇が代表的
(P146~に和訳。無有歌は特に哲学的)
・名称は違うが、「唯一神」を立てている。この見方は長くインドを支配し、
ウパニシャッドの「唯一不二」、大乗仏教の「唯有一乗法無二亦無三」は
この系統から発展した
・「太源から発展」→ウパニシャッドや唯識系仏教の「縁起説」は、これが発展したもの。
・太源はそれ自身が万有であるとしつつ、「原人」のように人格神としても捉える
⇒ 非ヴェーダ主義哲学の先駆、ここに現る!!