仏教と科学の接点Ⅲ カオス理論
「仏教と科学の接点3 カオス理論」
東京禅センター主催の花園大学公開講座のなかで
いちばんエキサイティングなシリーズ「仏教と科学の接点」の3回目。
(2009年10月17日・東大駒場キャンパスで3時間)
おなじみの佐々木閑先生(花園大学教授・仏教学者)がホストで、
今回のゲストは合原一幸先生(東大教授・数理工学者)です。
◆釈迦の考えた「私」のあり方はカオスに似ている
永続する実体としての「我」を否定した釈迦。
じゃあ、ここにいる「私」は何なのか?
釈迦は、無数の小さな要素の集合体、雲のような全体が「私」だと考えた。
要素が切れて有無消散した状態が、仏教の目指す「涅槃」である。
<われわれ生命体は、色=物質を基盤として、そこにひとつの心(認識活動の主体)と
40以上の心所=種種の精神作用が搭載され、心不相応行=エネルギーがそれらに
動的変化を与えるという形の「要素集合体」である。
その集合体は、刹那ごとに刻々と変化し続ける。それを時間と呼ぶ>
また、釈迦は、すべての現象はメカニカルに決まるという決定論で世界を捉えた。
でも、「私」が雲なら、そのどこに「業」のエネルギーは蓄えられるのか?
釈迦はそれについては述べなかったので、後の仏教者は頭を悩ませた。
◆決定論なのに複雑な動き・・・カオス理論
一見メチャクチャな動きをしているものには2種類ある。
・確率論的に動くもの(サイコロの目とか。1振り目と2振り目の間には何の関係もない)
・ロジスティック写像(実は、ひとつの公式に従ってメカニカルに動く)
ロジスティック方程式
X(n+1)=aX(n)(1-Xn) 0<a<4
時刻nと、時刻n+1の値は、この方程式のみで決まる。
(あたかも仏教の刹那と次の刹那の関係が、縁起でメカニカルに決まるように)
この方程式をグラフにすると、aの値によって不思議な動きをする(周期倍分岐)。
で、実際の現象(たとえば水の対流=お湯を沸かしたときに水がグルグル動くやつ)が、
この方程式とぴったり同じ法則で動いたので、研究者はみんなびっくらこいた。
この法則は、あらゆる現象に普遍的に見られる(ユニバーサルである)
このカオスを動画にしたもの(どういう理屈で動画になってるのか、よくわかんない)を
見せてくれた。水に漂うクラゲみたい、空中を飛ぶ羽みたい、タバコの煙みたい・・・。
ひとときも止まらずに、ゆるやかに動き続ける、複雑に見えてたった一つの公式で
動く不思議な動画・・・・釈迦のいう「私」とは、こういうものなのだろうか。
◆初期設定の小さな違いが、とんでもない差に
カオス理論には「バタフライ効果」というものがある。
初期設定のほんの小さな差が、時刻を追うごとに指数関数的に広がっていく。
(だから短期予測は可能だが、長期予測は不可能)
「予測可能性-ブラジルでの蝶の羽ばたきはテキサスでトルネードを引き起こすか」
(1972年のローレンツの講演タイトルに由来する)
◆仏教における「業」はバタフライ効果?
業(例えば悪いことをしたら獣に生まれ変わるとか)は、
どうやって因果でつながっているのか、仏教者は悩んだ。
→「三世実有」仮説
三世(過去・現在・未来)は、全部存在している。
存在しているから、過去の悪行・善行が、現在や未来に影響する。
→「でも、やっぱそれはおかしくね?」ということから、
因果でつながっていると考えるようになる。
これは、初期設定のわずかな違い(1回の盗みをする私・しない私)が、
時刻を経るにしたがって、やがてトルネードのような甚大な差
(地獄に落ちるとか)になって現れるようなものである。
しかも、その因果の法則は、恣意的なものや神が決めるのではなく、
法則でメカニカルに決まる。
これは、まさにカオス理論そのものではないか!!!!!!
今回も、またお釈迦さまのすごさを痛感したこの講座。
科学が進めば進むほど、「釈迦は正しかった」とわかるなんて、
いったいどういうことなんだ。恐るべき釈迦である。
タイムオーバーになってしまったので、
合原先生をもう一度ゲストにして、「フラクタル」の講義が行われることになった。
楽しみ!楽しみ!
「仏教と科学」のこのシリーズは、仏教学的にも科学的にもエスカレートして、
ほとんど誰もついてこれないハードコアな領域に入っていくことを期待します!
いっそ、1人2万円ぐらいとって、合宿とかやってくれないかな~~。

