「仏教VS倫理」
「仏教と倫理」でなくて「仏教 VS.倫理」という、
スリリングなタイトルに惹かれて読んだ。
◆ 仏教を疑う ◆
著者の仏教学者・末木文美士氏は、のっけから挑発的。
「僕は倫理とか道徳とかいうのは大嫌いで、今でもそういう言葉を聞くと
虫酸が走る思いがする」
「何をもって『仏教を信じる』ということになるのか。
仏教もまた疑ってかかるべきだ。」
「信じられないものはどう無理しても信じるわけにいかない。
それが僕の出発点だ。」
こういう疑い深い人、わたしは大好きだ。
著者は敬虔な仏教関係者をよく怒らせるそうだが、
この本のもとは『寺門興隆』という”業界誌”の連載だというから驚いた。
しかし考えてみれば当然だが、仏教(に限らず宗教)が、
自動的に「倫理的・道徳的」であるわけがない。
倫理・道徳は、「人と人の間のルール」で、国や時代によって変わる。
(戦時中は国のために死んだり殺したりすることが道徳だったように)
それに対して、「宗教は倫理を超える」と著者は書く。
「宗教は基本的に<人間>からの逸脱に関わり、<他者>と関わる。
むしろ逸脱そのものである。その点で、宗教は狂気、犯罪、性、情念、
衝動などと同類である」と。
(業界誌でよくこんなこと書けたな~~。ブログならすぐ炎上しそうだ)
原始仏教、たとえば「ダンマパタ」を読めば、
そこにはとっても素朴で普遍的な倫理観を感じて、心安らかになる。
「殺してはならぬ」とか「悪しきことをなさず、善いことを行え」等々。
ところが、その後、仏教が複雑に発展していくなかで、
ことはそう素朴ではなくなっていく。
例えば、中世日本の天台宗などで発展した「本覚思想」。
「衆生を転じて仏身と成るとは云わざるなり。衆生は衆生ながら、
仏界は仏界ながら、ともに常住と覚るなり」。
著者はこの思想を「修行の必要はなく、凡夫は凡夫のままでいいことになる。
この世界はこのままでよく、何ひとつ改める必要はないことになる」
「あるがままの現状を認めるということは、向上の機会を失う。(中略)
どのようなことをしてもかなわないという無節操、無批判な
無倫理主義に陥ることになる」と考える。
このような論は、法然や親鸞の門下でも問題になったそうで、
「阿弥陀仏に救われるのであれば、どんな悪でもなし放題という
造悪無碍論が問題となったが、これも本覚思想的な発想と関係深いものである。
有名な『悪人正機説』も、そのような傾向の中から生まれたものである」
と著者は書く。
(悪人正機説は、今の私には、どうやっても理解を超えていて、
誰かわかるように解説してくれないものだろうか)
◆ そう簡単に癒されたまるか ◆
最近の本でも、私が読んだ初心者向けの仏教本の中では、
「あるがままでいいんです」とか「仏教で癒される」とか
「ほっとする仏語」とか書いてあるものもあった。
それは違うんでねーかい?
お釈迦さまは「あるがままの現実を見よ」とは言ったけれど、
「あるがままのあなたでほっこりしてればOK」とは真逆の、
たゆまぬ克己の努力を説いたように私には思えて、
だから基本的に楽をしたい現代人にはウケない思想だと思うのだけれど、
どんなものだろうか? 仏教で、そう簡単に癒されては困る。
ちなみに末木氏の師匠は田村芳朗という仏教学者で、
「仏教における倫理性の欠如」という論文があるそうだ
(『田村芳朗仏教学論集2』所収)。いつか全集ごと挑戦してみよう。
それから、仏教と倫理の問題をギリギリまで追い詰めた仏教者に、
木沢満之(きよざわまんし 1863~1903年、真宗大谷派の改革者)
や毎田周一(1906~67年)がいるという。その人の本も読んでみよう。
また老後の宿題が増えてしまった。
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3-4 業と輪廻
業(カルマ)と輪廻
木村泰賢全集3-4
業による輪廻説は仏教で始まったものではなく、当時のインドの一般的教理。
梵書時代の終期からで、奥義書の常我説と相まって完成した。
だが、他と違って、仏教は固有の我を否定しながら、輪廻を認めるのは矛盾がある(何が輪廻するのか?)。仏教は輪廻説を立てることのできない教理にまで進みながら、それに気がつかないでか、また単なる通俗説として在来の説を利用したのだろうか?(仏教学者の間でも大問題であった)。
だが、もしブッダの生命観を正当に評価するなら、業説・輪廻説は仏教に至って初めて、真の哲学的意義を帯びることになった(木村説)。
◆ 輪廻するのは「魂」ではない ◆
輪廻するものは、無意識的意志(すなわち生命)そのものであって、意識ではない(仏典に、サティー比丘が輪廻の主体を「識なり」と主張して、ブッダに咎責された).
では「業」の本質とは何なのか?
「有情は業を自体とし、業の相続者なり」
=業は生命に依付する一種の力ではなく、
生命が自己創造を営むときの内的規定そのもの(思の種子、意志の性格)
=経験の積み重ねでできた「無意識的性格」
「前生と後生の人格は同じか異か」といった意味のバラモンの質問に対して、
ブッダは「同も異も極端、その中道である」といった意味の答えをした
「あたかも木とその実との循環のごとくに、業と因とは各々その因となりて転ず。
何人といえどもその始まりと終わりを告げ得るものなし」
つまり、ブッダの言う輪廻とは、「霊魂が空間を駆け回って種種の身分を得る」のではなく、「変化の当体が輪廻である」(霊魂がない=無我説だから)
◆ 善因善果、悪因悪果の意味 ◆
ブッダが言う因果の関係には2方向ある
・同性質の因果=「同類因」「等流果」
例えば今生によく勉強したら来世で賢明な素質を持つ
(輪廻の報は第三者から賞罰として与えられるのでなく、
自らの性格に応じて自らこれを作るのだから、理にかなっている)
・異性質の因果=「異熟因」「異熟果」
例えば今生で殺生をすると来世で短命に終わる。
これはなかなか理解しにくい難問である。
(例えば殺生をしたら殺人鬼に生まれ変わるというなら「自らの性格」
という根拠があるが、殺生と短命の間に直接関係はない)
ここにはやはり、倫理的な「賞罰」の要素があるのだろうか。
(木村先生の説明も、ここはわかりにくい)
※後に唯識派が「薫種子(くんしゅうじ、業的印象)」を2つにわけて
「名言(みょうごん)種子=時事的」「業種子=価値的」としたのも、これに対応する
宿命論ではなく、後天的努力(業の積み重ね)によって、ある程度まで変更・緩和できる
◆ 有情の段階 ◆
・六道=地獄ー畜生(動物)ー餓鬼ー阿修羅ー人生(人間)ー天上
人間と畜生を除けば、すべて神話的存在だが、これは当時一般的な信仰の習慣である。
・三界=欲界(地獄から天の一部まで含む)ー色界(天上だが未だ物質・身体的活動がある)
-無色界(天上でもはや身体的活動がない)
※奥義書にも似たような分類がある
◆ 輪廻説・業説のここがすばらしい ◆
・近代の生物学「遺伝」や「進化」概念に似ている
もちろんブッダにそんな意識はないが。
「人間は動物と違う特殊な存在」と考えたり、「気質の違いは超自然=神の思し
召し」などと考える宗教より、よほど近代の科学と似通っている。
また、業を「無意識的性格」と見たのは、近代の心理学と似ている。
・倫理説として非常に「妥当」である
善悪と禍福をいかに一致させるか、思想・宗教は古来からいろいろな説を提出してきた。なぜなら、現実に、善は必ずしも報われず、不正が栄えることも多いから。
「善を行えばよい報い」という心的要求と、現実との不調和をどう説明するか。
1)社会組織の改善に期待する
難点:社会変革にはあまりに時間がかかり、目の前の不合理な事象に対して
適切な解答と安心を与えない
2)自己の良心による賞罰案
=「正義を行えば、一見不幸に落ちても、自己の良心において満足がある」
難点:良心は人それぞれ。この説だと、良心が鈍いほど満足=幸福になる。
3)子孫において妥当性を求める
=「善いことをすれば子孫が報われる」。
難点:普遍的に確実なのか?子孫がいない、子孫がどうでもいい人はどうする?
4) 3)を拡大して、「社会に業力が残存する」
難点:1)3)に同じ。
5)神意による未来の裁判説
=キリスト教における「最後の審判」、インド有神派の「閻魔王の裁判」など。
難点:神が全知全能なら、なぜ「その場」でなく「未来」まで待って裁くのか。
「善人が虐げられるのは、神が試している」というなら、「悪人が栄える」
のも試しているといわねばならず、理にかなってない。
神意不可測なら、その裁判が公平かどうか疑わしい。
⇒⇒⇒ 1)~5)に比べ、ブッダの「業説」はもっとも妥当である。
・自分のした行動の報いを自分が受けるのだから公平。
・三世に渡るものだから、今現在の禍福が一致しなくても「前世の業」と納得できる。
・今生で不幸でも、悠久の輪廻中には必ず報われるとすれば、善行はムダ奉公にならない。
⇒⇒⇒運命に安んじながらも、喜んで善と正義とを追求できる。
妥当にして希望に満ちた「説明」である。
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縁結び特別拝観 長谷寺
奈良県桜井市の長谷寺で、
年2回恒例の「大観音特別拝観」が行われています
(10月1日~12月31日。もう1回は3~4月に始まる)。
ここの十一面観音は、高さ10mの巨大仏(木造で日本一)なのですが、
特別拝観のときは、堂内に入って足に触れることができるのです。
そのご利益は、ずばり「縁結び」。
お寺としては「観音さまとあなたのご縁」という意味かもしれませんが、
一般の認知は「結婚祈願」でしょうし、お寺もそれを見込んでいるでしょう。
「婚活中」の女性が大挙するんでしょうかねえ。
(出雲大社に婚活女性が大挙するというので、
駅前に「女性一人客歓迎」のビジネスホテルができてて驚きました)
婚活の世話までせねばならない
神さま仏さまも大変なことです。
私が長谷寺に行ったのは、5月頃でした。
沿革とかは面倒なので公式サイトに任せるとして、
一言でいって、絶対に行く価値のあるお寺でした。
広くて見るものがたくさんある。仏像がデカい。
四季折々の花が美しい。きれいに整備されている。
そしてなにより、「生きている」感じがするお寺です。
たまたま「ぼたん祭り」だったので大変な賑わいで、
まず門前に3人ぐらいのお坊さんが立っていて、
「いらっしゃいませ~」とは言わないですが、
そんな感じで迎えてくれました。
お寺のあちこちで、仕事をするお坊さんとすれ違い、
かなりの人数が修行していらっしゃるようす。
一番感動したのは、どこかのお堂で、
いきなり「声明」(お経に節をつけた宗教コーラス。
密教版ゴスペル?)が始まったことでした。
長谷寺は真言宗豊山派なので、有名な豊山声明です。
4人ぐらいのお坊さんが、誰に聞かせるでもなく、
声明を上げ(唱え?歌い?)、聞いているのは数人。
風が吹いて、山吹の花びらが散る中で聞く声明は、
もうほんとうに最高でした。
東京だと、入場料数千円でホールでやることがありますが、
やっぱりお寺で聞くほうがいいにきまってる。
逆に一番失望したのは、有名な「登廊」でした。
仁王門から本堂に登っていく399段の廊で、
それ自体はステキなのですが、
延々と説明テープが流れているのです!あれはブチ壊し。
他のお寺でもたまにありますが、やめてくれませんかねえ。
売店で『週刊・古寺を巡る 長谷寺』(小学館のムック)
を売っていたので、買ってみました。
予想通りの内容ではありましたが、
ひとつ、シブいなぁと感心したのは、最後になんと
保田與重郎の「大和長谷寺」が転載されていたことです。
センズいいじゃん、小学館。
このシリーズは、最後に、過去の名文を載せるようです。
長谷寺の観音を彫ろうと思ったら、近くの初瀬川に神木が
流れ着き、それを観音様にした、という伝説があります。
ここの観音は、蓮の台座でなく、珍しく岩の上に立たれて
いるのですが、たしかこれも霊験あらたかな岩だったと思います。
保田先生が書いていたのは、
神木や岩という古来日本的な信仰と、仏教信仰と、
ぐだぐだに混じっているが、それが日本的な信仰の形であり、
よろしいではないか、というような内容です。
(すごい雑なまとめですが)
保田與重郎は、桜井出身の偉大な批評家で、
山之辺の道や奈良の社寺について、たくさんの文章を
記しているので、そのうちチャレンジするつもりです。
余談ですが、長谷寺参道は「にゅうめん」(温かいそうめん)が
名物でお店が何軒もあるので、食べてみました。
おいしいですが、850円ぐらいして、あっという間にお腹がすきます。
長谷寺HP
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