アショカ財団、日本代表を公募中
今日(09年12月7日)の朝日新聞夕刊で、「おっ!」という小さな記事を見つけました。
直接仏教と関係はないニュースですが・・。
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<社会的起業を支える「アショカ」に日本支部 代表を公募>
世界最大の社会的起業支援団体といわれる「アショカ」(本部・米国)が来春、日本支部を設立することを決め、代表者の公募を始めた。起業を通じて社会を住みやすい仕組みに変える活動を進め、65カ国以上で約2千人の社会起業家を支援してきた。日本でも社会的起業のノウハウを教えるプログラムを展開する。
アショカは、米国の社会起業家、ビル・ドレイトンさんが1980年に設立した。起業を通じた社会変革に資金やノウハウを提供する社会的起業の先駆けとして知られる。
日本でも若者の非正規労働者や失業が増えているため、子どもや若者らに起業を教えるプログラムを普及させたいと、支部設立を決めた。
代表者の条件は、ビジネスと社会運動の両方を経験し、日英両国語に堪能で、社会を変えようという強い熱意や指導力がある人、と厳しい。
応募は09年12月半ばまで。問い合わせはeメールcareers@ashoka.org へ。(朝日新聞より)
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「アショカ財団」を、私は知らなかったのですが、
社会起業家業界では知らない人のいない有名な組織だそうです。
マッキンゼーに勤めていたウィリアム・ビル・ドレイトン氏が
1980年に創設した財団で、現在約30億円の資金をもとに
世界60カ国・2000人の「社会を変革する社会起業家」(アショカ・フェロー)
の育成と資金援助を行っているそうです。
アショカ王といえば、仏教に帰依・支援したインドの王様として
あまりにも有名。漢訳仏典でいう「阿育王」ですね。
アショカ王がたてた石柱の碑文がなければ、
お釈迦さまの生きた年代だとか、いろいろ基本的なことが
わからずじまいだったかもしれません。
「アショカ財団」を創設したビル・ドレイトン氏は、
オーストラリア系アメリカ人で、
1943年ニューヨーク生まれでハーバード大学というから、
20代の多感な時期にモロ公民権運動の影響をうけた世代ですね。
キング牧師が暗殺された68年、ビートルズはインドで修行してたりして、
「公民権・インド・マリファナ」3点セットの時代です。
で、ビルさんはインドに興味を持ち、「戦争で領土を広げたことに後悔し、
その後は武力による侵略をやめ、非暴力を掲げるようになった」
とされるアショカ王にちなんで、財団名を「アショカ」にしたそうです。
別に仏教と関係ない組織とはいえ、
ビルさん、ネーミングセンスが抜群です!
その日本支部ができて、代表公募となれば、
どんな人が選ばれるか興味しんしんです。
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自分のための道徳
木村泰賢全集
「原始仏教思想論」3-6
宗教と道徳は、必ずしも起源や範囲が一致しない。
宗教=人間と超人(人格神とはかぎらないが)との関係
道徳=人間と人間との関係
しかし、共通点はある。
少なくとも、我執・我欲を離れること(自己犠牲とか)
を、その主なる一要素とする点。
◆ 仏教のどこが、道徳の根拠となるのか
1)善因善果・悪因悪果
(いいことをすればいい来世、という一種の功利的立場)
2)一切衆生は三世因果の立場からすれば、みんな「同胞」だから
これを愛し慈しむのは当たり前である。
因果説からいえば、この世界は「共同責任」である。
3)同情の立場。
自分が欲しないことは、人もまた欲しない。
(自分が死にたくない→殺生をしない)
雑阿含教巻37ではこれを「自通法」と名づける。
※自己愛から発しているところがすばらしい!
「心によりて凡ての方処をかけめぐるも、
遂に自己よりも愛すべきものに遭遇することはない。
かくのごとく、他人もまた、その自己は唯一の愛すべきものである。
だから、自己を愛するものは、他を害するなかれ」
(成唯識論巻5)
ブッダは道徳感を重んじた。
道徳は、消極的にいえば我執我欲から離れること、
積極的にいえば自己を他人の中まで広げること、
つまり「小なる自己を解脱する道」である。
→後の大乗仏教の萌芽は、ブッダの中にある。
◆ 修行したらどこまでいけるか?
初期教団は、いくつかの段階を規定していた。
<羅漢道の4果>
1)預流果(よるか)=聖者の類に預かれる位。
ここに達した人は、長くても7回、人間・天上に
輪廻すれば涅槃を得る。極七生(ごくしちしょう)とも呼ぶ。
四諦について「なるほどそれに違いない」と確信したぐらい。
2)一来果(いちらいか)=1度この世界に戻るだけで解脱を得る。だから「一来」。
その確信に基づいて情意の制伏に進む段階。
3)不還果(ふげんか)=死んで天上に生まれて、そこで解脱する。
在家はここまでいける(かなり高いところまでいけるわけ)。
4)阿羅漢(あらかん)=最高解脱の位。
自分の存在の意義に対する一切の疑念が去り、
小なる欲望的自己を乗り越えた状態。
だが、これらは要するに神学的理屈にすぎず、
必ずしも体験の結果でもないし、原始仏教の考えを代表するものでもない。
あまりこれに拘泥しないほうがよい。
後のアビダルマでは、阿羅漢は常人が達せられない、肉体的にも超人の扱いと
してしまったが、原始仏教ではもっと「達しうる存在」であった。
阿羅漢に神通力があるような記述も、当時の「聖者は神通力がある」という
通俗信仰にあわせて説くための方便、と考えるほうがいい。
1)→4)まで順々に進むわけではなく、
「爆発的自覚」が起こって一気に阿羅漢にいく例もあった。
◆ 羅漢の効力(解脱した心の状態はどんなものか)
心地開明し、情熱を解脱した結果として、苦楽を超越し、
毀誉得失を離れて、真に永遠を味わい、常恒に生きる内面的法悦の生活!!
例えば、死に対するUpasenaという比丘の話。
毒ヘビに噛まれて、死に瀕しながら、表情もふだんどおり。
その理由を聞くと
「五根も六界もすべて我および我が所にあらざるを悟ったので、
肉体の死のごときは敢えて関するところにあらず」と。
死が怖くなくなるだけで十分、お釈迦様に帰依したいものです・・・。
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なぜ一切は苦なのか
十二支縁起、一切皆苦
木村泰賢全集
「原始仏教思想論」3-5
リグヴェーダ、ウパニシャッド、ジャイナ教、
数論派(24締説)にも縁起に似た発想がある。
ブッダはこれらを暗黙のうちに背景にしたと思われる。
例)「人は欲よりなる。欲にしたがいて志向あり。
志向に従いて業あり。業に従いて果あり」(奥義書)
◆ブッダの中心思想・十二支縁起
無明ー行ー識ー名色ー六入ー蝕ー受ー愛ー取ー生ー老死
ブッダが縁起を発見した最初の心的経過が、
南伝大蔵経(巻13)に存在する。
(この文章は感動的! 木村本200P )
往観(老死→無明。「なぜ老死の苦があるのか」を出発とし、
なぜ、なぜ、とさかのぼっていく)が
ブッダの問題意識であることは諸経文から明らか。
還観(無明→老死)は、その論理的帰結にすぎない、と考えられる。
ブッダの説明中には、価値判断を離れて純粋な「事実」だけを
明らかにしようとしたところは、ほとんど1カ所もない。
◆一切皆苦・・・ブッダは何が苦しかったのか
もともとインド思想は現実を厭うべきものとする傾向があったが、
ブッダはそれを内面的に痛感したのである。
世間は「無常なり、変異法なり、破壊法なり」
=一切は動いて止まない、破壊し、変異するが故に「苦」である。
何ひとつ、頼みがいのあるもの、安定したものはない。
一切は流転して、我々の希望と期待に反する結果をもたらす。
我の絶対的な自主・自由はない。
<「こは我のもの、こは我なり、こは自我なり、と認得し得べきや否や」
「世尊よ、否なり」。>
存在を「苦」と感じる理由は、とどのつまり、
この無常・無我の2つが根拠である。
逆に言えば、ブッダの理想は、常恒の実有・自主的な真我の実現に
ほかならないはずである。
それが不可能な現実をもって、「苦」と感じたのである。
神・梵や常我が実在するなら喜ばしいことだが、
なんの証拠もないうえに、与えられた現実がこれを裏切っている。
ブッダの智見からすれば、願わしいからといってこれを盲信するのは、
単なる妄想にすぎない。
だから我々は、無常・無我という「悲しむべき結論」の
基礎の上にたって、理想を立てなければならない。
↓
その中でも、ブッダは永遠・不変・自主に対する理想を捨てなかった。
この現実の上に立った永遠・不変・自主、それが「涅槃」なのだ!!
※ただし、これらの価値判断は聖者の最高標準に照らしたものであって、
日常生活を標準としたものではない(後のアビダルマにもそう記載されている)。
永遠に渉る高い理想をひかえての「厭世」であって、
日常の失望を意味する浅薄な「厭世」ではない
→ 西欧の「ペシミズム」と安易に同一視してはいけない。
それは、ブッダが日常世界の道徳的生活を説いたことからも明らか。
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