自分のための道徳
木村泰賢全集
「原始仏教思想論」3-6
宗教と道徳は、必ずしも起源や範囲が一致しない。
宗教=人間と超人(人格神とはかぎらないが)との関係
道徳=人間と人間との関係
しかし、共通点はある。
少なくとも、我執・我欲を離れること(自己犠牲とか)
を、その主なる一要素とする点。
◆ 仏教のどこが、道徳の根拠となるのか
1)善因善果・悪因悪果
(いいことをすればいい来世、という一種の功利的立場)
2)一切衆生は三世因果の立場からすれば、みんな「同胞」だから
これを愛し慈しむのは当たり前である。
因果説からいえば、この世界は「共同責任」である。
3)同情の立場。
自分が欲しないことは、人もまた欲しない。
(自分が死にたくない→殺生をしない)
雑阿含教巻37ではこれを「自通法」と名づける。
※自己愛から発しているところがすばらしい!
「心によりて凡ての方処をかけめぐるも、
遂に自己よりも愛すべきものに遭遇することはない。
かくのごとく、他人もまた、その自己は唯一の愛すべきものである。
だから、自己を愛するものは、他を害するなかれ」
(成唯識論巻5)
ブッダは道徳感を重んじた。
道徳は、消極的にいえば我執我欲から離れること、
積極的にいえば自己を他人の中まで広げること、
つまり「小なる自己を解脱する道」である。
→後の大乗仏教の萌芽は、ブッダの中にある。
◆ 修行したらどこまでいけるか?
初期教団は、いくつかの段階を規定していた。
<羅漢道の4果>
1)預流果(よるか)=聖者の類に預かれる位。
ここに達した人は、長くても7回、人間・天上に
輪廻すれば涅槃を得る。極七生(ごくしちしょう)とも呼ぶ。
四諦について「なるほどそれに違いない」と確信したぐらい。
2)一来果(いちらいか)=1度この世界に戻るだけで解脱を得る。だから「一来」。
その確信に基づいて情意の制伏に進む段階。
3)不還果(ふげんか)=死んで天上に生まれて、そこで解脱する。
在家はここまでいける(かなり高いところまでいけるわけ)。
4)阿羅漢(あらかん)=最高解脱の位。
自分の存在の意義に対する一切の疑念が去り、
小なる欲望的自己を乗り越えた状態。
だが、これらは要するに神学的理屈にすぎず、
必ずしも体験の結果でもないし、原始仏教の考えを代表するものでもない。
あまりこれに拘泥しないほうがよい。
後のアビダルマでは、阿羅漢は常人が達せられない、肉体的にも超人の扱いと
してしまったが、原始仏教ではもっと「達しうる存在」であった。
阿羅漢に神通力があるような記述も、当時の「聖者は神通力がある」という
通俗信仰にあわせて説くための方便、と考えるほうがいい。
1)→4)まで順々に進むわけではなく、
「爆発的自覚」が起こって一気に阿羅漢にいく例もあった。
◆ 羅漢の効力(解脱した心の状態はどんなものか)
心地開明し、情熱を解脱した結果として、苦楽を超越し、
毀誉得失を離れて、真に永遠を味わい、常恒に生きる内面的法悦の生活!!
例えば、死に対するUpasenaという比丘の話。
毒ヘビに噛まれて、死に瀕しながら、表情もふだんどおり。
その理由を聞くと
「五根も六界もすべて我および我が所にあらざるを悟ったので、
肉体の死のごときは敢えて関するところにあらず」と。
死が怖くなくなるだけで十分、お釈迦様に帰依したいものです・・・。
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