なぜ一切は苦なのか
十二支縁起、一切皆苦
木村泰賢全集
「原始仏教思想論」3-5
リグヴェーダ、ウパニシャッド、ジャイナ教、
数論派(24締説)にも縁起に似た発想がある。
ブッダはこれらを暗黙のうちに背景にしたと思われる。
例)「人は欲よりなる。欲にしたがいて志向あり。
志向に従いて業あり。業に従いて果あり」(奥義書)
◆ブッダの中心思想・十二支縁起
無明ー行ー識ー名色ー六入ー蝕ー受ー愛ー取ー生ー老死
ブッダが縁起を発見した最初の心的経過が、
南伝大蔵経(巻13)に存在する。
(この文章は感動的! 木村本200P )
往観(老死→無明。「なぜ老死の苦があるのか」を出発とし、
なぜ、なぜ、とさかのぼっていく)が
ブッダの問題意識であることは諸経文から明らか。
還観(無明→老死)は、その論理的帰結にすぎない、と考えられる。
ブッダの説明中には、価値判断を離れて純粋な「事実」だけを
明らかにしようとしたところは、ほとんど1カ所もない。
◆一切皆苦・・・ブッダは何が苦しかったのか
もともとインド思想は現実を厭うべきものとする傾向があったが、
ブッダはそれを内面的に痛感したのである。
世間は「無常なり、変異法なり、破壊法なり」
=一切は動いて止まない、破壊し、変異するが故に「苦」である。
何ひとつ、頼みがいのあるもの、安定したものはない。
一切は流転して、我々の希望と期待に反する結果をもたらす。
我の絶対的な自主・自由はない。
<「こは我のもの、こは我なり、こは自我なり、と認得し得べきや否や」
「世尊よ、否なり」。>
存在を「苦」と感じる理由は、とどのつまり、
この無常・無我の2つが根拠である。
逆に言えば、ブッダの理想は、常恒の実有・自主的な真我の実現に
ほかならないはずである。
それが不可能な現実をもって、「苦」と感じたのである。
神・梵や常我が実在するなら喜ばしいことだが、
なんの証拠もないうえに、与えられた現実がこれを裏切っている。
ブッダの智見からすれば、願わしいからといってこれを盲信するのは、
単なる妄想にすぎない。
だから我々は、無常・無我という「悲しむべき結論」の
基礎の上にたって、理想を立てなければならない。
↓
その中でも、ブッダは永遠・不変・自主に対する理想を捨てなかった。
この現実の上に立った永遠・不変・自主、それが「涅槃」なのだ!!
※ただし、これらの価値判断は聖者の最高標準に照らしたものであって、
日常生活を標準としたものではない(後のアビダルマにもそう記載されている)。
永遠に渉る高い理想をひかえての「厭世」であって、
日常の失望を意味する浅薄な「厭世」ではない
→ 西欧の「ペシミズム」と安易に同一視してはいけない。
それは、ブッダが日常世界の道徳的生活を説いたことからも明らか。
にほんブログ村