マダムの肉付き 秋篠寺
浄瑠璃寺の吉祥天が「チーママ」(by みうらじゅん氏)なら、
大ママっぽいマダムが、秋篠寺の技芸天です。
むかし行って、子供心に「艶やかとはこういうことか」
と思ったものです。
大人になって行っても、やっぱり、うっとりしました。
国宝ではなく重文ですが、その筋では有名な像です。
マダムは、腰をひねって、微妙に首をかしげた姿が
絶妙なのですが、実はこれ、
頭と体をあとでくっつけたからなんですって。
頭は奈良時代の脱活乾漆造、体は鎌倉時代に木造で、
合体させたそうです。
頭と体の間に、数百年の時間がたっているわけですねぇ。
しかも光背がないので、
とろりとした腰のひねりと肉付きがよく見えます。
大トロです。
技芸天はシヴァ神の髪際から生まれた天女だそうです。
数年前の死ぬほど暑い盛夏の平日に行ったのですが、
参拝客は2人で、静かにマダムと再会できました。
近所のおじいさんがベンチにずーっと座っていて、
庭にある木は、菩提樹だと教えてくれました。
実に羽ようなものが付いていて、
「竹とんぼみたいに、クルクル回りながら落ちるでしょう。
やってごらんなさい」と。
ああいう方が一人いらっしゃると、
寺参りもさらに楽しいですね。
ドビュッシーで「レントより遅く」というピアノ曲があるのですが、
その最初の部分を聞くと、秋篠寺の技芸天を思い出します。
ゆったり肉のついたマダムたちが、
退屈な昼下がりに半分まどろんでいるような音です。
秋篠寺
http://kotoroman.kakurezato.com/kobetu/kobetu_n_akisinodera.html
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ブッダ 大いなる旅路 中国編
ひきつづき、NHKスペシャル「ブッダ 大いなる旅路4」をDVDで見ました。
「東方の観音楽土~変容する仏たち~」と副題が付いたこの回は、
中国・台湾の観音信仰を取り上げます。
◆お釈迦さまって、誰のこと? ◆
中国の普陀山。
上海から飛行機で40分ぐらい(フェリーでも行ける)のところにある、
小さな島で、島自体が観音信仰の聖地となっています。
1000年の歴史があり、東アジア仏教徒のあこがれの島だそうです。
ここに、1997年、建設費54億円をかけて巨大な観音像が建てられました。
パッと見、新興宗教っぽいですが、
国内外で金持ちになった中国人・華僑が相当な寄付をしたそうです。
お釈迦様の入滅後、500年ほどたって、「菩薩信仰」が現れました。
菩薩=ボーディ・サットヴァ=悟りを約束された者。
「ジャータカ」では、ブッダの前世が菩薩だとされます(妄想だけど)。
菩薩のなかでも、観音=観世音菩薩の信仰は東方に伝わり、
中国に入って女性神化し、中国→アジア全土に広がりました。
日本でも、観音さんは、ヘタすりゃ如来以上に信仰されてますもんね。
番組は、どこか山間の貧しそうな村に目を移します。
そこには東福山勝因寺という寺があって、お盆になると人々は
観音像に祈り(?)を捧げます。
で、そのさらに上のほうのお堂に、釈迦像があります。
村の女性は言います。
「観音さまは地上にいる。仏陀は上にいて、一番えらいんだろうけどね」
その人たちは、
「仏教はゴータマ・シッダールタ=お釈迦様が作った」ということも
知らないし、そんなことはどうでもいいようなのです。
これはけっこう衝撃でした。
「仏教はお釈迦様が作った」ということを、知らなくていいのか?
・・・別に知らなくてもいいんじゃないの?という気もしてきました。
それから、問題は、
伝統的に儒教の「親孝行」が善とされる中国で、
「親子の執着も断ち切れ」とした仏教がなぜ受け入れられたのか?ということ。
番組では、中国で作られたと推測される『仏説盂蘭盆経』を、その根拠とします。
餓鬼道に落ちて苦しんでいる母親を、仏弟子の目連が救ったとするこのお経。
これが、「親孝行を説いた経」として、儒教と仏教を結びつけたと。
(これが、お盆の起源です)
いまでも「目連救母」は、京劇の演目として生きているそうです。
◆神・仏は、男がいいか? 女がいいか?
ここからは、勝手で無責任な感想ですが、
「神」や「仏」といったときに、
男=父を連想するか? 女=母を連想するか?
裁き罰するものと、許して救うものと、どちらを連想するか?
観音を含む菩薩がこれだけ崇められるのは、
「神や仏は、母=女のほうが、心理的に座りがいい」という文化が、
関係してはいないでしょうか。
(実際は、女のほうが厳しかったりもするので、
あくまで抽象的な父性・母性ということですが)
昔、遠藤周作の本(「母なるもの」だったかな?)を読んだら、
キリシタンが崇める祭壇をのぞいたら、
貼ってあってのは、お母さんの写真だった、と。
まぁ、日本は基本的にマザコン文化なので、さもありなんですが、
中国・台湾まで含めてそうなのかは、よくわかりません。
あるいは、キリスト教は、母親崇拝したくても、
聖書などがきちんとしてて、神が変容する余地があまりなかったので、
そのぶん「聖母マリア信仰」になったとか?
興味がつきない問題であります。
あともう一つ、菩薩信仰が広がったのは、如来より菩薩のほうが、
仏像を作ってて&眺めてて、面白いからじゃないですかね?
如来だけだと、衣装も地味だし、つくってる仏師も飽きますよね。
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原始仏教思想論2
原始仏教思想論2
木村泰賢全集3-2
◆ブッダ時代、いろんな新思想が入り乱れていた◆
旧バラモンが祭式にあけくれて生気を失ったの対して、
新興国ではいろいろな「沙門(しゃもん)団」
(=勤息ごんそく=努力する人)が現れて、
自由に出家して新思想を唱えた。お釈迦さまもその一人。
ブッダが最初に師事したアーラーラカーラーマやウツダカラーマブッタも、
沙門団の統領であった(彼らの説は、現在、詳細にはわからない)。
仏教とウパニシャッドの関係・・・原始仏教の文献には登場しない。
ブッダがウパニシャッドを知っていたかさえ不明である。
ウパニシャッドは西方のバラモンの内秘教だったため、
東方新興国には伝わらなかったのかもしれないが、
その思想的な空気は仏教にも影響している。
ブッダがいったんは布教を断念したけれど、やっぱりやることにしたのは、
マガダ周辺で、いろいろな沙門が人心をまどわす新思想を吹聴するのを
見るに見かねたからではないか(BY 木村先生)。
当時の沙門諸派の主張はおおむね8種類(長阿含14巻)
・常見論(世界も自我も常恒)
・半常半無常論(一部分は無常、一部分は常恒)
・有辺無辺論(世界が有限か無限かを論じる)
・詭弁論(何事に関しても、決定的解答を与えない)
・無因論(一切は偶然の現象で、因果の関係なし)
・死後論(死後の意識状態をいろいろ解釈する)
・断見論(死後の断滅を主張する)
・現法涅槃論(どんな状態を最高の境界とするかを論じる)
原始仏教ともっとも関係が深い思想潮流は、
1 バラモン教→マハーバーラタに至る倫理観
例えば、5戒(バラモン教の規定より)とか
2 ブッダの人生観・世界観は奥義書の系統を引く
3 非バラモン主義は、当時の自由思想の影響を受けている
バラモンを正とするなら、六師は「反」であり、
ブッダは正と反を止揚・綜合しょうとした。
これは広い意味での中道であり、
当時の新思想のなかで仏教の特色といってよい。
◆ ブッダの態度 ◆
<実践的>
ブッダの考察の対象は、広くいえば宇宙そのもので、
一切の世間現状を貫く一貫した法則を見出すことにあった。
だが、その目的はあくまで、
いかにして涅槃解脱するかであって、それに役立たない抽象的議論は排した。
(ここが科学者との違い)
<如実>
考察法において、ブッダがもっとも重んじたのは、
「なにごとをも如実の相(あるがままの現実)において見る」こと。
たとえば、修行中に夜の森林の恐怖感をのりこえるために、
他の修行者が、夜なのに「昼である」と思い込む方法を取ったのに対し、
ブッダは「夜は夜」として乗り越えねば意味がない、とした。
「宗教的アヘンをもって一時の慰安をとるがごときは、
ブッダのあえてせざるところであった」
<分析的>
世界の成立要素を解剖し、活動の様式を明らかにして、
そこに働く法則を見出す。
(5薀とか12因縁とか。分析的手法は仏教の大きな特徴)
<法=ダンマ>
原始仏教の立脚点は、法を悟り、法を実修ことに他ならない。
入滅時にブッダが言ったこと。
「阿難よ、(我が入滅後は)自らを光とし、自らを依拠として住し、
他の依拠によるなかれ。
法を光とし、法を依拠として住し、他の依拠によるなかれ」
人格的ブッダの現・不現のごときは関係ない、という誡め。
この法は、普遍性と必然性を帯びる、不変の真理であるとの確信のもとに。
(ダンマは、「dhr=保つ」という語源からきたもの。
リグヴェーダ時代から、神々の作用に「ダンマ」という言葉は用いられた)
事実に関する法則は、やがて思想界に関する法則の認識に導く前提である、
とブッダは考えた。
「解脱道」は普遍必然なので、これを行えば自然に理想界に進み行くもので、
その間に何らの念願も作意も必要ないーーこれが「法性」の意味である。
「我に解脱智見実現せよ、と念ずるを要せじ。これ法性なり」
<四諦>
かの有名な「苦・集・滅・道」
苦・集=世界の事実に関する法則=この世界は苦であり、苦の因は渇愛欲望にあり
滅・道=理想に至る法則=苦を滅しようとすれば八正道を通じて渇愛を滅せよ
これは、現実と理想の両界にわたる「常恒の法則」である。
「比丘よ、この四諦は真如なり。不虚妄なり。不変異なり」
と、ブッダは高らかに宣言する。
だが、いかにこれが常恒の法則であったとしても、
それを実現した人格としてのブッダが現前にいたことで、初めて意義を持った。
これが、バラモン教とは大きく違う。
法性を、自分の力で「利用できる」。
逆にいえば、これを利用しない限り、「法」がいかに素晴らしくとも、
少なくとも宗教的立場からすれば、何らの用もなさぬものである。
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