釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~ -210ページ目

マダムの肉付き 秋篠寺

浄瑠璃寺の吉祥天が「チーママ」(by みうらじゅん氏)なら、
大ママっぽいマダムが、秋篠寺の技芸天です。

むかし行って、子供心に「艶やかとはこういうことか」
と思ったものです。

大人になって行っても、やっぱり、うっとりしました。
国宝ではなく重文ですが、その筋では有名な像です。

マダムは、腰をひねって、微妙に首をかしげた姿が
絶妙なのですが、実はこれ、
頭と体をあとでくっつけたからなんですって。

頭は奈良時代の脱活乾漆造、体は鎌倉時代に木造で、
合体させたそうです。
頭と体の間に、数百年の時間がたっているわけですねぇ。


しかも光背がないので、
とろりとした腰のひねりと肉付きがよく見えます。
大トロです。



釈迦むに・スーパースター ~仏教のつれづれ~  大トロのような技芸天。



技芸天はシヴァ神の髪際から生まれた天女だそうです。
数年前の死ぬほど暑い盛夏の平日に行ったのですが、
参拝客は2人で、静かにマダムと再会できました。

近所のおじいさんがベンチにずーっと座っていて、
庭にある木は、菩提樹だと教えてくれました。
実に羽ようなものが付いていて、
「竹とんぼみたいに、クルクル回りながら落ちるでしょう。
やってごらんなさい」と。

ああいう方が一人いらっしゃると、
寺参りもさらに楽しいですね。


ドビュッシーで「レントより遅く」というピアノ曲があるのですが、
その最初の部分を聞くと、秋篠寺の技芸天を思い出します。
ゆったり肉のついたマダムたちが、
退屈な昼下がりに半分まどろんでいるような音です。



秋篠寺
http://kotoroman.kakurezato.com/kobetu/kobetu_n_akisinodera.html



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ブッダ 大いなる旅路 中国編



ひきつづき、NHKスペシャル「ブッダ 大いなる旅路4」をDVDで見ました。
「東方の観音楽土~変容する仏たち~」と副題が付いたこの回は、
中国・台湾の観音信仰を取り上げます。


◆お釈迦さまって、誰のこと? ◆


中国の普陀山。
上海から飛行機で40分ぐらい(フェリーでも行ける)のところにある、
小さな島で、島自体が観音信仰の聖地となっています。

1000年の歴史があり、東アジア仏教徒のあこがれの島だそうです。

ここに、1997年、建設費54億円をかけて巨大な観音像が建てられました。
パッと見、新興宗教っぽいですが、
国内外で金持ちになった中国人・華僑が相当な寄付をしたそうです。



釈迦むに・スーパースター ~仏教のつれづれ~  普陀山。行ってみたいな。ツアーもあるようです。



釈迦むに・スーパースター ~仏教のつれづれ~ 普陀山の観音さん。大船観音か牛久大仏のよう。


お釈迦様の入滅後、500年ほどたって、「菩薩信仰」が現れました。
菩薩=ボーディ・サットヴァ=悟りを約束された者。
「ジャータカ」では、ブッダの前世が菩薩だとされます(妄想だけど)。

菩薩のなかでも、観音=観世音菩薩の信仰は東方に伝わり、
中国に入って女性神化し、中国→アジア全土に広がりました。

日本でも、観音さんは、ヘタすりゃ如来以上に信仰されてますもんね。


番組は、どこか山間の貧しそうな村に目を移します。
そこには東福山勝因寺という寺があって、お盆になると人々は
観音像に祈り(?)を捧げます。
で、そのさらに上のほうのお堂に、釈迦像があります。
村の女性は言います。

「観音さまは地上にいる。仏陀は上にいて、一番えらいんだろうけどね」
その人たちは、
「仏教はゴータマ・シッダールタ=お釈迦様が作った」ということも
知らないし、そんなことはどうでもいいようなのです


これはけっこう衝撃でした。
「仏教はお釈迦様が作った」ということを、知らなくていいのか?
・・・別に知らなくてもいいんじゃないの?という気もしてきました。


それから、問題は、
伝統的に儒教の「親孝行」が善とされる中国で、
「親子の執着も断ち切れ」とした仏教がなぜ受け入れられたのか?
ということ。


番組では、中国で作られたと推測される『仏説盂蘭盆経』を、その根拠とします。
餓鬼道に落ちて苦しんでいる母親を、仏弟子の目連が救ったとするこのお経。
これが、「親孝行を説いた経」として、儒教と仏教を結びつけたと。
(これが、お盆の起源です)
いまでも「目連救母」は、京劇の演目として生きているそうです。



◆神・仏は、男がいいか? 女がいいか?



ここからは、勝手で無責任な感想ですが、
「神」や「仏」といったときに、
男=父を連想するか? 女=母を連想するか?
裁き罰するものと、許して救うものと、どちらを連想するか?


観音を含む菩薩がこれだけ崇められるのは、
「神や仏は、母=女のほうが、心理的に座りがいい」という文化が、
関係してはいないでしょうか。

(実際は、女のほうが厳しかったりもするので、
あくまで抽象的な父性・母性ということですが)


昔、遠藤周作の本(「母なるもの」だったかな?)を読んだら、
キリシタンが崇める祭壇をのぞいたら、
貼ってあってのは、お母さんの写真だった、と。


まぁ、日本は基本的にマザコン文化なので、さもありなんですが、
中国・台湾まで含めてそうなのかは、よくわかりません。
あるいは、キリスト教は、母親崇拝したくても、
聖書などがきちんとしてて、神が変容する余地があまりなかったので、
そのぶん「聖母マリア信仰」になったとか?
興味がつきない問題であります。


あともう一つ、菩薩信仰が広がったのは、如来より菩薩のほうが、
仏像を作ってて&眺めてて、面白い
からじゃないですかね?
如来だけだと、衣装も地味だし、つくってる仏師も飽きますよね。





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原始仏教思想論2

原始仏教思想論2

                木村泰賢全集3-2


◆ブッダ時代、いろんな新思想が入り乱れていた◆


旧バラモンが祭式にあけくれて生気を失ったの対して、
新興国ではいろいろな「沙門(しゃもん)団」
(=勤息ごんそく=努力する人)が現れて、
自由に出家して新思想を唱えた。お釈迦さまもその一人。


ブッダが最初に師事したアーラーラカーラーマやウツダカラーマブッタも、
沙門団の統領であった(彼らの説は、現在、詳細にはわからない)。


仏教とウパニシャッドの関係・・・原始仏教の文献には登場しない。
ブッダがウパニシャッドを知っていたかさえ不明である。
ウパニシャッドは西方のバラモンの内秘教だったため、
東方新興国には伝わらなかったのかもしれないが、
その思想的な空気は仏教にも影響している。


ブッダがいったんは布教を断念したけれど、やっぱりやることにしたのは、
マガダ周辺で、いろいろな沙門が人心をまどわす新思想を吹聴するのを
見るに見かねたからではないか(BY 木村先生)。


当時の沙門諸派の主張はおおむね8種類(長阿含14巻)


・常見論(世界も自我も常恒)
・半常半無常論(一部分は無常、一部分は常恒)
・有辺無辺論(世界が有限か無限かを論じる)
・詭弁論(何事に関しても、決定的解答を与えない)
・無因論(一切は偶然の現象で、因果の関係なし)
・死後論(死後の意識状態をいろいろ解釈する)
・断見論(死後の断滅を主張する)
・現法涅槃論(どんな状態を最高の境界とするかを論じる)



原始仏教ともっとも関係が深い思想潮流は、
1 バラモン教→マハーバーラタに至る倫理観
   例えば、5戒(バラモン教の規定より)とか
2 ブッダの人生観・世界観は奥義書の系統を引く
3 非バラモン主義は、当時の自由思想の影響を受けている


バラモンを正とするなら、六師は「反」であり、
ブッダは正と反を止揚・綜合しょうとした。
これは広い意味での中道であり、
当時の新思想のなかで仏教の特色といってよい。



◆ ブッダの態度 ◆


<実践的>
ブッダの考察の対象は、広くいえば宇宙そのもので、
一切の世間現状を貫く一貫した法則を見出すことにあった。
だが、その目的はあくまで、
いかにして涅槃解脱するかであって、それに役立たない抽象的議論は排した。
(ここが科学者との違い)


<如実>
考察法において、ブッダがもっとも重んじたのは、
「なにごとをも如実の相(あるがままの現実)において見る」こと。
たとえば、修行中に夜の森林の恐怖感をのりこえるために、
他の修行者が、夜なのに「昼である」と思い込む方法を取ったのに対し、
ブッダは「夜は夜」として乗り越えねば意味がない、とした。
宗教的アヘンをもって一時の慰安をとるがごときは、
 ブッダのあえてせざるところであった


<分析的>
世界の成立要素を解剖し、活動の様式を明らかにして、
そこに働く法則を見出す。
(5薀とか12因縁とか。分析的手法は仏教の大きな特徴)


<法=ダンマ>
原始仏教の立脚点は、法を悟り、法を実修ことに他ならない。
入滅時にブッダが言ったこと。
「阿難よ、(我が入滅後は)自らを光とし、自らを依拠として住し、
他の依拠によるなかれ。
法を光とし、法を依拠として住し、他の依拠によるなかれ」
人格的ブッダの現・不現のごときは関係ない、という誡め。


この法は、普遍性と必然性を帯びる、不変の真理であるとの確信のもとに。
(ダンマは、「dhr=保つ」という語源からきたもの。
 リグヴェーダ時代から、神々の作用に「ダンマ」という言葉は用いられた)


事実に関する法則は、やがて思想界に関する法則の認識に導く前提である、
とブッダは考えた。
「解脱道」は普遍必然なので、これを行えば自然に理想界に進み行くもので、
その間に何らの念願も作意も必要ない
ーーこれが「法性」の意味である。
「我に解脱智見実現せよ、と念ずるを要せじ。これ法性なり」


<四諦>

かの有名な「苦・集・滅・道」

苦・集=世界の事実に関する法則=この世界は苦であり、苦の因は渇愛欲望にあり
滅・道=理想に至る法則=苦を滅しようとすれば八正道を通じて渇愛を滅せよ

これは、現実と理想の両界にわたる「常恒の法則」である。
「比丘よ、この四諦は真如なり。不虚妄なり。不変異なり」
と、ブッダは高らかに宣言する。


だが、いかにこれが常恒の法則であったとしても、
それを実現した人格としてのブッダが現前にいたことで、初めて意義を持った。
これが、バラモン教とは大きく違う。


法性を、自分の力で「利用できる」。
逆にいえば、これを利用しない限り、「法」がいかに素晴らしくとも、
少なくとも宗教的立場からすれば、何らの用もなさぬものである。






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