釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~ -212ページ目

自分探しはやめよう『春と修羅』


釈迦むに・スーパースター ~仏教のつれづれ~


小学生のころ、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」や「よだかの星」
「注文の多い料理店」などを、うっとりしながら読みました。


おとなになってから、詩集「春と修羅」を読んで、
この序文の最初の部分に、唸りました。
「春と修羅」は、1924年(大正13年)、
賢治の生前に唯一刊行された詩集です。釈迦むに・スーパースター ~仏教のつれづれ~



==春と修羅 序文 =============


わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)


風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち、その電燈は失はれ)


(以下略)

========================


仏教の一番だいじなことを、こんなに短く、美しい文章で、
書き記すとは、なんたることでしょう。


「わたくしという存在」はない。
「わたくし」は「現象」である・・・・。


できることなら、これをマ

ガダ語に翻訳して
お釈迦さまに読んで頂きたいです。


宮沢賢治が仏教徒だったことは有名ですが、
もちろん、いわくつきだったことも有名です。

宮沢家は浄土真宗、賢治自身は日蓮系の国柱会に入ります。

国柱会は「バリバリに戦争協力をした」ということで、
日本仏教史のなかで、かなりダークな存在のようです。
「賢治は仏教徒といっても、あれだろ、国柱会だろ」という
言われ方はあって、それはたぶんダークなのでしょうが、
それでも、この序文の美しさはまったく損なわれません。


だからもう、「自分探し」で人生を浪費したり、
「誰も本当の私をわかってくれない」と嘆くのは、
やめたほうがいいんじゃないでしょうか。


「わたくし」が「存在」だと思うと、
どこかに実体としての「本当の私」がいるという錯覚に囚われます。
でも、「わたくし」は、因果交流電燈の、青く明滅する豆電球です。

玉ねぎの芯の部分に「私」がいると思って、
どんどん玉ねぎの皮をむいていっても、芯には何もない。
それに気づいたとき、私はかなり楽になりました。


というような感じ方は、だいぶ普及したのかと思ったら、
何年か前に、サッカーの中田が、
「新たな自分探しの旅に出たい」とHPに書いて引退してしまい、
それに共感する人も数多く、
え、そうなの?その言葉はまだアリなの?と腰がくだけました。


フィリピンのスラム街で子供たちと球を蹴ったりして、
本当のナカタを探したようですが、
ちゃんとテレビクルーを連れて行ってたんですね。


「春と修羅」は、いろいろな出版社から出ていますが、
もう著作権が切れているので、ネット上も読めます。


http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/card457.html

ブッダ 大いなる旅路④ タイの僧院から


NHKスペシャル 「ブッダ 大いなる旅路」の4回目、
「タイの僧院にて ~生きている仏教」を見ました。


タイに行ったとき、「仏教徒の国と言われるけど、本当にどのぐらい
仏教が生きているの?」と疑問に思いました。
が、それは観光客の浅知恵だったようで、今もかなり”生きている”
ことがわかりました(このNスペを信じるならば)。


釈迦むに・スーパースター ~仏教のつれづれ~



◆3か月も「出家有給休暇」が取れる


まず驚いたのが、会社にお坊さんを呼んで、社内読経イベントが
普通に行われていること。

そして、サラリーマンでも普通に「出家休暇」が取れること。
7~10月の雨安居(雨季)には10万人もの男子が出家をして、
100日たつと、また社会に戻っていくそうです。


番組ではタイの航空会社の社員(31歳)が、
上司に「出家しようと思うんですけど」と言い(有給申請のときは、
上司にローソクを持っていく)、
上司は「最近、あなたは自分を見失っているようなので、自分を取り戻して
戻っていらっしゃい」とか言って許可します。


で、彼は頭を剃って、受戒式で200以上の戒律を受け入れて、
ハダシで托鉢、歩行瞑想、禁セックス等々の3か月。
会社に戻ったときには、9キロ痩せてたとか。
出家ダイエット、確実に効きます。



◆エイズのホスピス寺のご夫婦


末期エイズの人を集めてホスピスをつくった「プラバートナンプー寺」。
エイズ患者たちが暮らしています。
ホスピスといっても、日本のように医療スタッフが何でもやってくれるわけでなく、
患者自身が掃除・炊事から、亡くなった人の弔いまでやります。


そこで結婚した、貧しいエイズ患者同士の夫婦が、忘れられません。
顔を見合わせて、照れくさそうに微笑んだりしながら、
静かに、こんなふうに言っていました。


―なぜ結婚したんですか?
「妻が倒れ

たら僕が世話をして、僕が倒れたら妻が世話をするんです」
人生の最後を一緒に過ごして、助け合うためです


ー将来の不安はないですか?
「不安・・?」
「今はただ、残された時間を一緒にすごしたい」
「生きているあいだに、お寺や社会のためにできるだけ善い行いをしたい。
 それだけです」


彼らはもう、ほとんど「仏」でした。


釈迦むに・スーパースター ~仏教のつれづれ~ タイの「タトゥコンテスト」の過去サイトを見てたら、

                         こんなTシャツを買うと一部がエイズ寺に寄付されます、と

                         出てました。タトゥとエイズと仏教。



◆仕事と仏教は両立するのだろうか?


はなはだ疑問に思ったのですが、「出家休暇」から帰ってきたあと、
仕事のモチベーションは持つのでしょうか?
番組に出ていた人は、航空会社の人事マンだから、まだいいですよ。
営業ノルマとか、ないですからね。


でも、商業雑誌編集者である私には、たぶん無理です。
「1日5分で劇的に痩せる」とか「知らなきゃ損する」とか
「資産3倍増の必勝トレード」とか、そういうタイトルは
2度と付けられない体になって戻ってくると思います。


たいていの仕事は、大衆の「欲望と怒りと愚かさ」に点火して、
さして必要ない物を売ったりすることで成り立っているわけでしょう。

雑誌編集者、自動車ディーラー、サラ金、広告代理店、電器量販店、
そういった仕事についている人が、
釈迦の教えを3か月学んだあとで、
手の平を返したように「さー、がんばって売るぞ!」なんていうふうに
なれるものでしょうか?

まともな神経なら、仕事やめちゃうよね。



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ヨガの起源

ヨガ(瑜伽)派


                         木村泰賢全集2-5


思想的に特徴はないが、修行法としてきわめて重要。
ウパニシャッド以降、ほぼインド全般に共通する修行法となった。


「心と五感と静まり、智識の動揺せざるとき、これを最高帰趣と名づく」


インドに特徴的な、
解脱主義・主我主義・寂静的傾向(暑いのでじっとしている)


・ヨガを最初に誰が唱えたかは、
いろいろ伝説があるが、歴史的にははっきりしない。


・リグヴェーダ終期の苦行法・タパスあたりに萌芽がある
  (飲食・睡眠・肉欲の制限、呼吸の圧迫、外界との交渉を絶つ、など)


 →ウパニシャッド時代に、ここに「内省」という目的が明確になり
  このあたりがヨガの起源。
  ヨガに関するたくさんの小聖典が存在する
  
 →パタンジャリが「ヨガ経」として組織立てる
   (パタンジャリがいつの人か不明だが、BC2Cごろか?)


釈迦むに・スーパースター ~仏教のつれづれ~  マドンナ先生もヨガにハマっとります。



<ヨガ経>

194句(スートラ)から成り、4品にわけられる


・哲理はほとんど数論と同じ。
 自性と神我との結合が苦痛の本源なので、これを断絶して神我の
 独存を畢竟の目的とする


・座り方、息の調整、制感などの方法を解説


<ヨガの宗教的意義>


生物の本質は、生活意志(生きようとする意志、拡がろうとする意志)である。
人間は、それに肉体的・現実的側面と、霊的・精神的側面の両方がある。


これを、現実的生命の要求と、絶対的生命の要求(By木村先生)と呼ぶなら、
すべての宗教は絶対的生命の要求から起こったものである


無限を憧れ、不死を望み、絶対的自由の境地に達しようとするのは
すべての宗教の最終目的とするところである。
しかも宗教が永久にその存在権を主張する唯一の根拠である。


「現世的宗教」と呼ばれるものもあるが、
ほんとうに現実の満足(カネとか)のみを最終目的にするなら、
それは決して「宗教」ではない。


また、どんな宗教も、いくぶんは現実的意志を否定する側面がある。
肉を捨てて、霊を取る

とくにインドの宗教ではこの傾向が顕著で、
現実的意志を否定しなければ、絶対的生命の要求が満たされないと信じた。


ヨガは、以上のことを具体化する方法にほかならない。
・作法ヨガ=肉体的方向を司る=現実意志を拒む
・王ヨガ=思索、観法、精神修養=絶対的生命を拡張する


ヨガはこの2つを同時に兼ね備えた、唯一の修行法。
だから、宗教心があるかぎり、ヨガは、どんな時代も世界中で通用する。


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