ヨガの起源
ヨガ(瑜伽)派
木村泰賢全集2-5
思想的に特徴はないが、修行法としてきわめて重要。
ウパニシャッド以降、ほぼインド全般に共通する修行法となった。
「心と五感と静まり、智識の動揺せざるとき、これを最高帰趣と名づく」
インドに特徴的な、
解脱主義・主我主義・寂静的傾向(暑いのでじっとしている)
・ヨガを最初に誰が唱えたかは、
いろいろ伝説があるが、歴史的にははっきりしない。
・リグヴェーダ終期の苦行法・タパスあたりに萌芽がある
(飲食・睡眠・肉欲の制限、呼吸の圧迫、外界との交渉を絶つ、など)
→ウパニシャッド時代に、ここに「内省」という目的が明確になり
このあたりがヨガの起源。
ヨガに関するたくさんの小聖典が存在する
→パタンジャリが「ヨガ経」として組織立てる
(パタンジャリがいつの人か不明だが、BC2Cごろか?)
<ヨガ経>
194句(スートラ)から成り、4品にわけられる
・哲理はほとんど数論と同じ。
自性と神我との結合が苦痛の本源なので、これを断絶して神我の
独存を畢竟の目的とする
・座り方、息の調整、制感などの方法を解説
<ヨガの宗教的意義>
生物の本質は、生活意志(生きようとする意志、拡がろうとする意志)である。
人間は、それに肉体的・現実的側面と、霊的・精神的側面の両方がある。
これを、現実的生命の要求と、絶対的生命の要求(By木村先生)と呼ぶなら、
すべての宗教は絶対的生命の要求から起こったものである。
無限を憧れ、不死を望み、絶対的自由の境地に達しようとするのは
すべての宗教の最終目的とするところである。
しかも宗教が永久にその存在権を主張する唯一の根拠である。
「現世的宗教」と呼ばれるものもあるが、
ほんとうに現実の満足(カネとか)のみを最終目的にするなら、
それは決して「宗教」ではない。
また、どんな宗教も、いくぶんは現実的意志を否定する側面がある。
(肉を捨てて、霊を取る)
とくにインドの宗教ではこの傾向が顕著で、
現実的意志を否定しなければ、絶対的生命の要求が満たされないと信じた。
ヨガは、以上のことを具体化する方法にほかならない。
・作法ヨガ=肉体的方向を司る=現実意志を拒む
・王ヨガ=思索、観法、精神修養=絶対的生命を拡張する
ヨガはこの2つを同時に兼ね備えた、唯一の修行法。
だから、宗教心があるかぎり、ヨガは、どんな時代も世界中で通用する。
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