3-4 業と輪廻 | 釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

3-4 業と輪廻

業(カルマ)と輪廻

                木村泰賢全集3-4


業による輪廻説は仏教で始まったものではなく、当時のインドの一般的教理。

梵書時代の終期からで、奥義書の常我説と相まって完成した。


だが、他と違って、仏教は固有の我を否定しながら、輪廻を認めるのは矛盾がある(何が輪廻するのか?)。仏教は輪廻説を立てることのできない教理にまで進みながら、それに気がつかないでか、また単なる通俗説として在来の説を利用したのだろうか?(仏教学者の間でも大問題であった)。


だが、もしブッダの生命観を正当に評価するなら、業説・輪廻説は仏教に至って初めて、真の哲学的意義を帯びることになった(木村説)。


◆ 輪廻するのは「魂」ではない ◆


輪廻するものは、無意識的意志(すなわち生命)そのものであって、意識ではない(仏典に、サティー比丘が輪廻の主体を「識なり」と主張して、ブッダに咎責された).


では「業」の本質とは何なのか?
「有情は業を自体とし、業の相続者なり」

=業は生命に依付する一種の力ではなく、
 生命が自己創造を営むときの内的規定そのもの(思の種子、意志の性格)

=経験の積み重ねでできた「無意識的性格」


「前生と後生の人格は同じか異か」といった意味のバラモンの質問に対して、
ブッダは「同も異も極端、その中道である」といった意味の答えをした

「あたかも木とその実との循環のごとくに、業と因とは各々その因となりて転ず。
 何人といえどもその始まりと終わりを告げ得るものなし」


つまり、ブッダの言う輪廻とは、「霊魂が空間を駆け回って種種の身分を得る」のではなく、「変化の当体が輪廻である」(霊魂がない=無我説だから)



◆ 善因善果、悪因悪果の意味 ◆


ブッダが言う因果の関係には2方向ある

・同性質の因果=「同類因」「等流果」
        例えば今生によく勉強したら来世で賢明な素質を持つ
        (輪廻の報は第三者から賞罰として与えられるのでなく、 
         自らの性格に応じて自らこれを作るのだから、理にかなっている)


・異性質の因果=「異熟因」「異熟果」
        例えば今生で殺生をすると来世で短命に終わる。
        これはなかなか理解しにくい難問である。
        (例えば殺生をしたら殺人鬼に生まれ変わるというなら「自らの性格」
         という根拠があるが、殺生と短命の間に直接関係はない)
        ここにはやはり、倫理的な「賞罰」の要素があるのだろうか。
        (木村先生の説明も、ここはわかりにくい)


 ※後に唯識派が「薫種子(くんしゅうじ、業的印象)」を2つにわけて
 「名言(みょうごん)種子=時事的」「業種子=価値的」としたのも、これに対応する


宿命論ではなく、後天的努力(業の積み重ね)によって、ある程度まで変更・緩和できる


◆ 有情の段階 ◆


・六道=地獄ー畜生(動物)ー餓鬼ー阿修羅ー人生(人間)ー天上 

人間と畜生を除けば、すべて神話的存在だが、これは当時一般的な信仰の習慣である。

・三界=欲界(地獄から天の一部まで含む)ー色界(天上だが未だ物質・身体的活動がある)
    -無色界(天上でもはや身体的活動がない)
   ※奥義書にも似たような分類がある


◆ 輪廻説・業説のここがすばらしい ◆


・近代の生物学「遺伝」や「進化」概念に似ている
   もちろんブッダにそんな意識はないが。
   「人間は動物と違う特殊な存在」と考えたり、「気質の違いは超自然=神の思し

召し」などと考える宗教より、よほど近代の科学と似通っている。
   また、業を「無意識的性格」と見たのは、近代の心理学と似ている。


・倫理説として非常に「妥当」である

善悪と禍福をいかに一致させるか、思想・宗教は古来からいろいろな説を提出してきた。なぜなら、現実に、善は必ずしも報われず、不正が栄えることも多いから。
   「善を行えばよい報い」という心的要求と、現実との不調和をどう説明するか。


 1)社会組織の改善に期待する
    難点:社会変革にはあまりに時間がかかり、目の前の不合理な事象に対して
        適切な解答と安心を与えない
     
 2)自己の良心による賞罰案
     =「正義を行えば、一見不幸に落ちても、自己の良心において満足がある」     
     難点:良心は人それぞれ。この説だと、良心が鈍いほど満足=幸福になる。


 3)子孫において妥当性を求める
     =「善いことをすれば子孫が報われる」。
    難点:普遍的に確実なのか?子孫がいない、子孫がどうでもいい人はどうする?


 4) 3)を拡大して、「社会に業力が残存する」
     難点:1)3)に同じ。


 5)神意による未来の裁判説
     =キリスト教における「最後の審判」、インド有神派の「閻魔王の裁判」など。
     難点:神が全知全能なら、なぜ「その場」でなく「未来」まで待って裁くのか。
        「善人が虐げられるのは、神が試している」というなら、「悪人が栄える」
         のも試しているといわねばならず、理にかなってない。
        神意不可測なら、その裁判が公平かどうか疑わしい。



 ⇒⇒⇒ 1)~5)に比べ、ブッダの「業説」はもっとも妥当である。 


・自分のした行動の報いを自分が受けるのだから公平。
・三世に渡るものだから、今現在の禍福が一致しなくても「前世の業」と納得できる。
・今生で不幸でも、悠久の輪廻中には必ず報われるとすれば、善行はムダ奉公にならない。


 ⇒⇒⇒運命に安んじながらも、喜んで善と正義とを追求できる。
    妥当にして希望に満ちた「説明」である。
 

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