アハハ地獄って・・・?
『スッタニパータ』(中村元訳、『ブッダのことば』岩波文庫)を
読み直しています。ほんとうに珠玉の名言オンパレードなわけですが、
「大いなる章」の「コーカーリヤ」(145P)を読んでいて、
こんなフレーズが出てきました。
「20のアップダ地獄はひとつのアババ地獄(の時期)に等しい。
20のアババ地獄は、ひとつのアハハ地獄(の時期)に等しい。
20のアハハ地獄は、ひとつのアタタ地獄(の時期)に等しい。
(以下続く)」
アハハ地獄って・・・?
「くすぐり地獄」「茂木健一郎のアハ体験」など連想が
浮かんでは消えるのですが、もちろんまったく関係なく、
パーリ語がわかればわかるのではと思うのですが、
アババ・アハハ・アタタ地獄の意味は何なんでしょうか?
調べてみますが、ご存知の方がいたら教えて頂きたいです。
中村元先生の解説もないもので。
この「コーカーリヤ」で、こんなふうにかかれています。
「人が生まれたときには、実に口の中には斧が生じている。
愚者は悪口を言って、その斧によって自分を斬り割くのである」。
けだし大名言であります。
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仏教の善悪
木村泰賢全集5-7
お釈迦さま自身は、悟りを開いたあと45年間にわたって人々に教えを説き、
俗事も含めて、あらゆる善事を勧められた。
(国王の政治から、一家の平和、貯金や健康に至るまで、世俗的な幸福のためで
あっても、他を害することなく正しい行いを犯さないかぎりでの善を勧めた)。
絶対的無我となって、他のためには小我を捨てて自己を犠牲にし、
他の迫害に対しては全くの無抵抗主義をとるべし、と。
そういう点では、仏教はきわめて倫理的な宗教なのだけれども、
原始仏教では理論的に善悪を説いたわけではない。
そのため、仏教において倫理・道徳・善悪はどう解釈されるのか、
後に、さまざまな議論を呼んだ。
その代表的なものは、
「仏教の最高の目的は解脱である。
現世の規定にすぎない倫理道徳や社会救済などは、
修行の方便としての2次的なものである」といったもの。
たしかに仏教の倫理論を研究すれば、そう解釈される余地もあって、
西洋人学者のなかには「仏教の根本思想中にはほとんど倫理的色彩がない」
(ウィルヘルム・ブセット『宗教の本質』)と指摘する人もいる。
※ここでいうのは、後に発達したロマンチックな大乗ではなく、
原始→阿毘達磨仏教の根本思想から、どうやって「善を行え」が
必然的に導き出されるのか? という問題である。
◆ 何をするのが「善」か ? ◆
原始経典(中部経典)には、悪(不善)と善を、10個ずつをリストアップしている。
10の不善
=殺生・偸盗・邪淫・妄語・両舌・悪口・綺語・貪求・瞋恚・邪見
10の善
=不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不両舌・不悪口・不綺語・不貪求・
不瞋恚・不正見
「この十善を行うのが善で、十悪を行うのが悪」というのが、
定型的な善悪の説明である。
だが、これは「善悪の根拠」としてわかりにくいので、
阿毘達磨論師たちは、より一般的な根拠を探った。
いろいろな根拠が混入しているが、せんじつめれば・・・
「いずれの業を以ってするも、能く他に好事を与えるに随って、この業を善と名づく」
(成実論7巻、三業品第百)
つまり、
「人に幸福を与える」行為が善、としている。
仏教では、この善=利他をなせば、現世で損をしても来世以降のいつかは
自分の幸福につながるので、「利他・自利の行いが善」ということになる。
では仏教の「善」は功利的(いつか自分が幸福になるための行為)なのか?
というと、そうとも言い切れない。
・仏教において最高の幸福とは解脱涅槃である。「涅槃は最高の楽なり」。
もっとも進んだ阿毘達磨(大毘婆沙論など)では、下の2つを区別している。
↓
有漏(うろ)善=現世でなく来世であっても、欲望の満足を望んでする行為
無漏(むろ)善=現世的欲望を捨てて、ひたすら最高解脱の
永劫楽を求めてする行為
※輪廻中にハッピーに生まれるための善と、解脱の導きのための善とは、
善のレベルが違う、ということか?
・仏教は行為よりも「動機主義」である
行為より、むしろ行為の根本にある心根そのものに
善悪の判断をくだした。
=「自性善」と「自性悪」
たとえば、「自性善」であげられる「慙・愧」。
「慙」とは徳を重んじ、内を省みて恥じる心を言い、
「愧」とは罪を恐れて、外に対して恥じる心、だという。
「慙愧」とは、「良心」に近い概念といえる。
これらのことを考えると、、
上座部仏教を功利主義の一言で片付けるのは間違っている。
「無」の物理学
何年ぶりかで、科学雑誌「ニュートン」(2010年2月号)を買いました.
特集は「『無』の物理学」。
副題に「『空っぽの空間』は、本当に空っぽなのだろうか・・・」
とあります。
たとえ仏教と何ら関係なくても、
「無」とか「空」という文字にピクリと反応してしまうのです。
- Newton(ニュートン) 2010年 02月号 [雑誌]/著者不明
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=特集の序文=======================
「無は、ほんとうにしてはあまりにすばらしすぎる」。
19世紀のイギリスの物理学者マイケル・ファラデーは
このようにのべたという。
物理学の発展につれて、「無」はますます重要になりつつある。
「無」が素粒子を生み出す。
「無」がエネルギーを持っている。
「無」が宇宙を誕生させる・・・。
これらはいずれも、現代の物理学が導き出した
”まっとう”な結論だ。
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すべての物質(原子、分子、素粒子)を取り除いた、
何もない「からっぽな空間」=「無の空間」を仮定します。
ところが、何もないはずの空間に、
ほんの一瞬のエネルギーが存在し、そのエネルギーを使って、
無数の素粒子(=物質の最小単位)が、
沸騰するように湧き出すというのです。
その素粒子(仮想粒子)の寿命はものすごく短く、
10の22乗分の1秒=「1秒÷1兆÷100億」秒ぐらい!
どんだけ短いのか、想像もつきませんが、
そのスピードで誕生と消滅をくりかえしているそうなんです。
仏教でいう「刹那」=75分の1秒=より、
もう、ずーっとずーっと短いんですねぇ。
しかも、その素粒子は「もの」ではなくて、
「場」にエネルギーが集中して一つ二つと数えられるようになる
「こと」を指すのです。
「無の空間」は何もないけれど「場」で満たされていて、
「もの」ではない「こと」としての素粒子が無数に沸き立っている。
このあたり、なにやら宗教的であります。
で、全宇宙がもつエネルギーのうち、
「銀河=星や銀河をつくる通常の物質」は4%にすぎず、
「目に見えない暗黒物質」が23%。
残りの73%は「無の空間が持つエネルギー」だそうです。
私たちの住む宇宙は、時空(時間と空間)さえ存在しない
「無」から、ひょっこり誕生したんだそうです。
さっぱりわかりませんね!
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