仏教の善悪 | 釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

仏教の善悪


                木村泰賢全集5-7



お釈迦さま自身は、悟りを開いたあと45年間にわたって人々に教えを説き、
俗事も含めて、あらゆる善事を勧められた。
(国王の政治から、一家の平和、貯金や健康に至るまで、世俗的な幸福のためで
 あっても、他を害することなく正しい行いを犯さないかぎりでの善を勧めた)。
絶対的無我となって、他のためには小我を捨てて自己を犠牲にし、
他の迫害に対しては全くの無抵抗主義をとるべし、と。


そういう点では、仏教はきわめて倫理的な宗教なのだけれども、
原始仏教では理論的に善悪を説いたわけではない。
そのため、仏教において倫理・道徳・善悪はどう解釈されるのか、
後に、さまざまな議論を呼んだ。


その代表的なものは、
仏教の最高の目的は解脱である。
現世の規定にすぎない倫理道徳や社会救済などは、
修行の方便としての2次的なものである
」といったもの。


たしかに仏教の倫理論を研究すれば、そう解釈される余地もあって
西洋人学者のなかには「仏教の根本思想中にはほとんど倫理的色彩がない」
(ウィルヘルム・ブセット『宗教の本質』)と指摘する人もいる。


※ここでいうのは、後に発達したロマンチックな大乗ではなく、
原始→阿毘達磨仏教の根本思想から、どうやって「善を行え」が
必然的に導き出されるのか? という問題である。


◆ 何をするのが「善」か ? ◆


原始経典(中部経典)には、悪(不善)と善を、10個ずつをリストアップしている。

10の不善
=殺生・偸盗・邪淫・妄語・両舌・悪口・綺語・貪求・瞋恚・邪見

10の善
=不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不両舌・不悪口・不綺語・不貪求・

  不瞋恚・不正見


「この十善を行うのが善で、十悪を行うのが悪」というのが、
定型的な善悪の説明である。


だが、これは「善悪の根拠」としてわかりにくいので、
阿毘達磨論師たちは、より一般的な根拠を探った。
いろいろな根拠が混入しているが、せんじつめれば・・・


いずれの業を以ってするも、能く他に好事を与えるに随って、この業を善と名づく
(成実論7巻、三業品第百)
つまり、
「人に幸福を与える」行為が善、としている。

仏教では、この善=利他をなせば、現世で損をしても来世以降のいつかは
自分の幸福につながるので、「利他・自利の行いが善」ということになる。



では仏教の「善」は功利的(いつか自分が幸福になるための行為)なのか?
というと、そうとも言い切れない。


・仏教において最高の幸福とは解脱涅槃である。「涅槃は最高の楽なり」。

もっとも進んだ阿毘達磨(大毘婆沙論など)では、下の2つを区別している。

有漏(うろ)善=現世でなく来世であっても、欲望の満足を望んでする行為
無漏(むろ)善=現世的欲望を捨てて、ひたすら最高解脱の

                  永劫楽を求めてする行為


※輪廻中にハッピーに生まれるための善と、解脱の導きのための善とは、
善のレベルが違う、ということか?


・仏教は行為よりも「動機主義」である


行為より、むしろ行為の根本にある心根そのものに
善悪の判断をくだした。
=「自性善」と「自性悪」

たとえば、「自性善」であげられる「慙・愧」。
「慙」とは徳を重んじ、内を省みて恥じる心を言い、
「愧」とは罪を恐れて、外に対して恥じる心、だという。
「慙愧」とは、「良心」に近い概念といえる


これらのことを考えると、、
上座部仏教を功利主義の一言で片付けるのは間違っている。