『がんと闘った科学者の記録』
『がんと闘った科学者の記録』(文芸春秋、09年5月)という本を読みました。
著者の戸塚洋二氏は、ニュートリノの観察でノーベル賞確実と言われて
いたのに、2008年7月10日にがんで亡くなってしまいました。
その戸塚氏が、最後の11か月に綴ったブログをまとめた本で、
一部でかなり話題になっています。
その、自分の病と死を客観的に観察・分析する態度は、
ほとんど、クシナガラでのお釈迦さまの最期を思い起こすほどです。
この本の中に、仏教のことがちょこちょこ出てきます。
仏教学者・佐々木閑先生のエッセイや本を読んで、
また佐々木先生と会ってお話もしたそうで、
「理屈っぽい」同士でかなり共感するところがあったようです。
「骨の髄まで無神論者」だという戸塚氏は、無神論である原始仏教に、
「これならアリかも」と思ったのではないでしょうか。
お釈迦さまは「ありのままの事実を無視して、都合よく立てた法なんかじゃ、
苦しみから逃れられない」として、徹底的に心と世界を観察しました。
顕微鏡も天体望遠鏡もない2500年前なのに、
その観察は現在わかっている「事実」と驚異的に合致します。
本物の天才ですね。
もちろん、合致しなくても仏教の価値が下がるわけじゃないですが、
もしお釈迦さまが、現代に生まれていたら・・・?
まちがいなく、最先端の科学の成果を研究しまくると思うんですよ。
そのうえで法を考え出すのではないかと。
そんなことを常々考えていたら、
戸塚氏の本に、「科学者としての突っ込み」が出てきて、
とても興味深かった。以下、本からの抜粋です。
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◆ 「因果の法則」は成り立つか ◆
「21世紀を切り開いた科学革命のひとつである量子力学の根本は、
物事の起きる事情が確率的である、
つまり『原因なしに突然起き』、法則としては『起きる確率が存在するだけだ』、
ということは『科学入門』で紹介しました。
この根本は、因果の法則と真っ向から対立します。
因果の法則を死ぬまで信じたアインシュタインは、『神はサイコロを振らない』
と言って、最後まで量子力学の根本を信じませんでした。
もしかしたら21世紀、アインシュタインの悩みが正しく、
『因果律』の復活というパラダイムの大転換が起きるかもしれない(以下略)」
(P158)
◆ 「輪廻」は成り立つか ◆
「宇宙や万物は何もないところから生成し、そしていずれは消滅・死をむかえる」
「生前の世界、死後の実在を信じない。輪廻転生も信じない。
なぜなら、宇宙が生まれ死んで行くのは科学的事実だから、無限の過去から
無限の未来に続く状態など存在し得ない」(P219)
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輪廻は2500年前のインドで「事実」と思われていたので、
それに立った法を考えるのは当然のこと。
ですが、もしお釈迦さまが現代科学を知っていれば、
「そんなの関係ねぇ」と無視したりはしなかったと思うのです。
そしたら、法のどこを修正してどこを残すのか・・・・。
こんなことを考えると、敬虔な仏教徒の人には超ヒンシュクでしょうが。
でも、お釈迦さまはバラモンに対して、
「ふーん、ブラフマンなんて、あんた見たことあんの?」とタンカを切る方ですから、
以下の戸塚氏の一文を読むと、意外と2人は気があって、
「やっぱ如実が大事だよね!」と飲み屋で盛り上がる・・・わけにはいかないが、
話がはずむと思うのですが。
「論理的に整合の取れた理論構造は、天才の頭の中で無限に作ることができます。
しかし、その理論を自然が採用しているかどうかは、全く別問題です。
そのため、自然がどの理論を実際に採用しているのかを観察等で調べることは、
理論構築と同じかそれ以上に重要な科学作業だと考えているのです」
(P227)
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世界はルールで動いている
「世界はルールで動いている」お釈迦さまの大発見
木村泰賢全集5-4
ブッダは無常を説いて「常住論」を否定したが、
原始仏教時代には、その否定する中心は、
「常住の自我」、「梵天など神の実在」ぐらいだった。
それが部派仏教の時代になると、
なんらかの形で常住的存在を認める論にたいして、
ことごとく反駁するようになった。
無常観を発展させて「刹那滅」(物理的・心理的なあらゆる現象は、
一刹那に生じて滅する、流転変化してやまないもの)との説を生じた。
所行無常の、行くところまで行っちゃった形。
<変わる世の、変わらないもの=無為>
しかし、無常な中で、ブッダは以下のことの常恒を説いた。
・現象界を貫く法則の常恒不変
(法性決定、法性常恒。たとえば縁起の法)
・最終理想である涅槃境の常恒不変
(涅槃境は不生・不滅・不死・不壊。もう流転しない
現象界=有為に対して、涅槃は無為)
・四諦の常恒不変
(この四諦は不虚妄なり、不変異法なり、真如なり)
部派仏教の時代に、「何が無為=不変か」についてさまざま議論が起こり、
無為の範囲を広げていった
(たとえば説一切有部の「三無為」のひとつ、「虚空」とか。
虚空無為=いわば「絶対空間」。あらゆる物質変化を取り去っても
残る不変の空間)
超越的な神が決めているのでなく、不変の「ルール」で一切は動いている!
お釈迦様のこの”大発見”は、
ほとんど科学者の態度といってよいでせう。
(とはいえ、事実の解明はあくまで手段であって、
それ自体が目的ではない、という点が科学とは違うけれども)
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宇宙は実在するか?
初期仏教の宇宙観
木村泰賢全集5-3
ブッダは「宇宙は因縁の上に成立する現象」と考えたが、
理論的に探求したわけではないので、
後に(阿毘達磨時代に)いろいろな解釈が出てきた。
おおざっぱに言うと、
上座部系=実在論的傾向(起源を問うことなく、もともとあったもの)
大衆部系=観念論的(心によって世界は規定される)
または無宇宙論的(すべては仮現である)な傾向
これらの傾向は、どれもブッダの宇宙観に内包されていた。
<すべては実在する=説一切有部の実在主義>
18部宗の中で一番有力で体系的だった説一切有部(上座部系、
入滅後200年ころ成立か?)は、徹底的に実在主義を主張した。
森羅万象を数十の要素に分けた(倶舎論では75の要素)。
その要素には得・生・滅といった「状態・関係」も入っていて、
それらも物質と同じく「実在する」としたことから「一切有部」
との名前になった(抽象名詞の実在化的思想)。
※つまり、上座仏教は「一切は空」と考えていなかった!
・三世実有
映画のフィルムのように「刹那」が現れては消える。
だが過去の消滅するのでなく、過去的存在として実在する。
未来もまた同じ。
過去の業が現在に影響るなら、どちらも存在していないと
おかしいから。(時間の観念を空間に置換えた)
物質不滅、エネルギー恒存と考えている点、、
中世ヨーロッパ哲学の実在論によく似ているとも言える。
< すべては仮の姿=大衆部? の観念論・無宇宙論 >
現実の事象は、存在ではなくて、ただの「現象」にすぎない。
(どの部派が主張したか定かでないが、
断片的な資料からすると大衆部のようである。
大衆部は総じて理想主義的で、理想である涅槃の実現に
都合のよいように現実世界をも観察する傾向がある)
例「一切の有為法はまったく死灰にすぎない」
「現実は、傾倒心からおこる仮名無実体。だが涅槃は実在する」
(=一切の現象は無価値で存在意義なし)
上座部の常識的な実在論にあきたらずに、この世界観が発生した?
また、有部の三世実有に対して、大衆部は、
「存在するのは、現在のこの一刹那のみ」と考えた。
<両者のいいとこ取りをした世界観>
入滅後900年ごろのインドの訶梨跋摩(かりばつま)が著した「成実論」。
訶梨跋摩はたいへんに博学多聞で、いろいろな論書を読んで、
大衆部・有部・中観派などから「法にかなうかどうか」を基準に
取捨選択して、説を立てようとした。
「成実論」によると、「世諦のゆえに有なり、第一義諦のゆえに空なり」。
つまり、「常識的・科学的にみれば万有は実在するけれども、
形而上的な立場からすればその本性は空である」と。
=はじめから「すべては存在しない=空」というのはさすがに無理筋だが、
「存在する」ではありきたり。立脚点の違いによって、両方を取るのが
中道であり、ブッダにいたる道ということ。
上座部の「有」からはじまって、大乗中観派(空)に近いところまで
進んだという意味で面白い。
(鳩摩羅什(くまらじゅう)の訳で中国に伝わり、
「これは大乗か?小乗か?」と議論になった)
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