お釈迦さまの超人化
阿毘達磨のブッダ観
木村泰賢全集5-2
お釈迦さまは実在した人間のはずなのに、
いつごろから超人めいた伝説が語られるようになったのだろうか?
まだブッダの記憶が残っているころの古い記録には、
仏伝はわずかしか残っていない。
だが仏弟子たちも亡くなって、ブッダを追慕する気持ちが高まって、
いろいろな材料(聖典に伝わる材料や、口伝や・・・)をまとめて
作られたのが、ジャータカ(本生譚)という「仏伝文学」である。
これは、生きたブッダの人生だけでなく、
前生の数百千代の輪廻の履歴(?)まで物語にしたもので、
ブッダはウサギだったり馬だったり商人だったり漁夫だったり。
しかも、かなり早い段階(入滅後100年ぐらい?)にできたらしい。
(アショカ王や、それ以前の仏教遺跡サーンチーの彫刻にも、
ジャータカが彫られている。長阿含大本経などにも)
これによって、ブッダ、そして前世である菩薩への信仰が、
後の大乗仏教で大きく発展したとも言える。
ゴリゴリの合理主義ブディストであるわたくしは、
ジャータカとどう付き合っていいのかよくわからないのですが、
みんなに仏教が広まるには、こういう物語が必要だったとは思う。
<菩薩とは>
ブッダの候補者のこと。菩提(bodhi=智)を求める人。
衆生のために尽くした人。
ブッダ&菩薩の三十二相(見た目の特徴32ケ条。眉間に百豪があるとか、
頭の上が盛り上がっている肉髷=にくげいとか・・・)は、
インド人の信仰では、最大の権威者の人相である。
もともとビシュヌ神話から来たものらしいが、
当時のインドで 想像上の理想の王と考えられていた
転輪王(=チャクラヴァーラ)が32相を備えるとされていて、
それがブッダ・菩薩に転用されたと思われる。
仏像など仏教美術は、このお約束を守っているんですね~。
<ブッダは同時に2人いるか>
諸派によると、過去に7仏、24仏、または数万仏(!)がいたが、
この世界に同時に2人の仏が並び出ることはない、とされた。
(なぜ!? 理由がよくわからない・・・)。
有部を含めて、ほとんどはこの「一仏派(二仏並出を否定)だった。
その根拠は「如来の威力は十方の三千大世界に及ぶから、
多くの仏が並出する必要はない。この全宇宙には一仏のみ」とのこと。
一方で、わずかながら多仏同時存在派(経量部とか?)もいて、
「現に多くの菩薩が仏道の修行をしているのだから、
他の三千大世界にはまた別の仏が出現していることを
否定する理由がない」という。
わたくし個人的には、
ほかの世界どころか、この世界に複数の仏がいても
なんら不思議はないと思うのだが、どうなんでしょうか?
※かの「日本テーラワーダ協会」が、
ネット上にジャータカを載せてくれていました。
ここのHPは、本当に充実していてすばらしい。
http://www.j-theravada.net/jataka/index.html
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Yes We Can Can
「ダンマパタ」などの原始経典を読んでいると、
ほんとうにお釈迦さまはシンプルなことを説いたのだなぁと思います。
善きことをしよう。優しい言葉を話そう。
「ヤング@ハート」というアメリカ映画をDVDで見ました。
平均年齢80歳のロックコーラス隊のドキュメンタリーなんですが、
その最後に歌われるのが<Yes We Can Can>という曲です。
歌詞を、適当に意訳すると・・・
<Yes We Can Can>
そのときがやってきた。
お互いに思いやって、善き人になろう。
いろいろな問題や争いを乗り越えて
兄弟のように生きよう。
女性を尊敬しよう、
みんなお母さんから生まれてきたんだ。
この国をもっとよくしよう。
人に親切にしよう、
助け合って、善き人であろう。
私たちはできる、やればできるんだ。
そう、私たちは世界をもっとよくできる。
(以下つづく)
作詞・作曲は、アラン・トゥーサン
(ニューオリンズの偉人、ピアニスト、ソングライター)。
ゴスペル調で、背景にあるのは当然キリスト教なのですが、
これ以上ないほどシンプルで感動的。
上記の歌詞には、お釈迦さまもマホメットも
それほど異論はなかろう、と。(少しはありそうですが)
キリスト教も仏教も、いろいろな宗教は複雑に発展して、
お互いにののしりあったりもしてきたのですが、
煎じ詰めると、目指すものはそんなに違わないのでは……
と思ったのでした。
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<Yes We Can Can>
Allen Toussaint
Now is the time
Now is the time for all good men
To get together with one another
Iron out our problems
And iron out our quarrels
And try to live as brothers
And try to find a piece within
Without stepping on one another
And do respect the women of the world
Just remember you all have mothers
Make this land a better land
Than the world in which we live
And help each man be a better man
With the kindness that you give
I know we can make it
I know darn well we can work it out
Oh yes we can, I know we can can
Yes we can can, why can't we
If we wanna get yes we can can
I know we can make it a world
I know we can make it if we try
Oh yes we can, I know we can can
Yes we can can, great, got your money
Yes we can, I know we can can
canが70何回も出てくるので、歌うのは大変らしいです。
オバマの大統領選でも、注目されたようです。
名曲だ。アラン・トゥーサンは、やっぱり天才だ
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仏教分裂<上座部と大衆部>
仏教分裂<上座部と大衆部>
木村泰賢全集5-1
木村氏の解釈では
・原始仏教=入滅後100年ぐらいまで
・阿毘達磨仏教=滅後100年から、分派して種々異なった見解が起こり、
阿毘達磨論書が書かれ、滅後500~600年ごろまで(計400~500年)。
すべて緩やかで価値を重視した原始仏教に比べ、
阿毘達磨は「世界の諸問題そのものの定義・分類・解明」を試みた。
(事実そのものの論究)。
◆ 入滅後、部派に分裂した仏教 ◆
なにについての意見の相違だったのか?
(南伝によると)
仏教の盛んだったヴェーサーリーは、独立性に富んだヴァッジー族の中心地で、
戒律に対しても多少自由に解釈してふるまっていた。
→これを、長老・耶舎(ヤサ)が見咎めて、10か条について糾弾し、
長老を集めて会議を開いた(十時の非法問題。ヴェーサーリー会議)。
この機会に第二結集を開いて三蔵全体を結集(長老700人)。
これ以外の多数の長老も別に会議を開いた(大結集)。
→これを機に、
上座部(長老派、伝統固執系)と、大衆部(自由系)とに分かれた
=分派のはじめ。
つまり、戒律についての意見の違いが動機になって、
伝統固執派と自由派と意見が分かれて、結集を機に公然と分派した。
(北伝によると)
羅漢の資格や性質について意見が分かれ、マガダ国で分派した。
その中心となった問題を「五事」という。
その五か条を認めるのは「大衆部」、これを異端とするのは「上座部」になった。
◆ 上座部と大衆部 ◆
上座部・大衆部からさらに分化して、18部に(※P44)。
(その分かれ方にはさまざまな伝説がある)
それぞれの派は、特有の阿毘達磨を持っていた、と思われる。
上座部
苦集問題、すなわち現実界成立の因由を明らかにして解脱に至ろう
⇔
大衆部
どちらかといえば滅道の理想問題に重きを置き、そのために都合のよい
世界観を構成しようとした
だが、現在、三蔵聖典が残っているのは、説一切有部(せついっさいうぶ)と
あとはチョボチョボである。
説一切有部は、もっとも論に重きを置いて、数多くの論書を輩出した。
(例 発智論20巻など「発智6論」、編纂者はKatyayaniputra
大毘婆沙論200巻!! 編纂者は迦湿弥羅
これらは唐の玄奘によって漢訳された。玄奘さんもすごい!!)
これらによって有部の論は大発展したが、
あまりにも煩瑣で、初学者には手におえない状態になってしまった。
→そこで、整理した綱要書がいろいろ作られた。
(例 「阿毘曇心論」by 法勝
「阿毘達磨倶舎論」 by 世親 AC5世紀)
※大衆部の論は、残念ながらひとつも残っていないが、やや近いものとして
有名な「成実論」(by Harivarman)16巻がある(AC4世紀ごろ?)。
有部があまりに煩雑なのに反感を持って、「空説」を唱えたもの。
◆ ほとんど科学のような 阿毘達磨 ◆
現代でいえば、ほとんど物理学・天文学・生物学・心理学、といった
ジャンルに入るであろう阿毘達磨(壮大すぎて理解できない!)。
キリスト教でいえば、聖典に対して「神学」にあたるかも。
勉強が大変なわりに思想的な収穫は「?」だが、
仏教が世界をどうとらえたか(理法)や、
大乗仏教へのブリッジとして、通らねばならない道である。
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