仏教分裂<上座部と大衆部>
仏教分裂<上座部と大衆部>
木村泰賢全集5-1
木村氏の解釈では
・原始仏教=入滅後100年ぐらいまで
・阿毘達磨仏教=滅後100年から、分派して種々異なった見解が起こり、
阿毘達磨論書が書かれ、滅後500~600年ごろまで(計400~500年)。
すべて緩やかで価値を重視した原始仏教に比べ、
阿毘達磨は「世界の諸問題そのものの定義・分類・解明」を試みた。
(事実そのものの論究)。
◆ 入滅後、部派に分裂した仏教 ◆
なにについての意見の相違だったのか?
(南伝によると)
仏教の盛んだったヴェーサーリーは、独立性に富んだヴァッジー族の中心地で、
戒律に対しても多少自由に解釈してふるまっていた。
→これを、長老・耶舎(ヤサ)が見咎めて、10か条について糾弾し、
長老を集めて会議を開いた(十時の非法問題。ヴェーサーリー会議)。
この機会に第二結集を開いて三蔵全体を結集(長老700人)。
これ以外の多数の長老も別に会議を開いた(大結集)。
→これを機に、
上座部(長老派、伝統固執系)と、大衆部(自由系)とに分かれた
=分派のはじめ。
つまり、戒律についての意見の違いが動機になって、
伝統固執派と自由派と意見が分かれて、結集を機に公然と分派した。
(北伝によると)
羅漢の資格や性質について意見が分かれ、マガダ国で分派した。
その中心となった問題を「五事」という。
その五か条を認めるのは「大衆部」、これを異端とするのは「上座部」になった。
◆ 上座部と大衆部 ◆
上座部・大衆部からさらに分化して、18部に(※P44)。
(その分かれ方にはさまざまな伝説がある)
それぞれの派は、特有の阿毘達磨を持っていた、と思われる。
上座部
苦集問題、すなわち現実界成立の因由を明らかにして解脱に至ろう
⇔
大衆部
どちらかといえば滅道の理想問題に重きを置き、そのために都合のよい
世界観を構成しようとした
だが、現在、三蔵聖典が残っているのは、説一切有部(せついっさいうぶ)と
あとはチョボチョボである。
説一切有部は、もっとも論に重きを置いて、数多くの論書を輩出した。
(例 発智論20巻など「発智6論」、編纂者はKatyayaniputra
大毘婆沙論200巻!! 編纂者は迦湿弥羅
これらは唐の玄奘によって漢訳された。玄奘さんもすごい!!)
これらによって有部の論は大発展したが、
あまりにも煩瑣で、初学者には手におえない状態になってしまった。
→そこで、整理した綱要書がいろいろ作られた。
(例 「阿毘曇心論」by 法勝
「阿毘達磨倶舎論」 by 世親 AC5世紀)
※大衆部の論は、残念ながらひとつも残っていないが、やや近いものとして
有名な「成実論」(by Harivarman)16巻がある(AC4世紀ごろ?)。
有部があまりに煩雑なのに反感を持って、「空説」を唱えたもの。
◆ ほとんど科学のような 阿毘達磨 ◆
現代でいえば、ほとんど物理学・天文学・生物学・心理学、といった
ジャンルに入るであろう阿毘達磨(壮大すぎて理解できない!)。
キリスト教でいえば、聖典に対して「神学」にあたるかも。
勉強が大変なわりに思想的な収穫は「?」だが、
仏教が世界をどうとらえたか(理法)や、
大乗仏教へのブリッジとして、通らねばならない道である。
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