太宰病と『如是我聞』
やばい。昨日、『人間失格』のことを書いたら、
10代の太宰病時代のことをいろいろ思い出してきました。
いい年して太宰の話もどうかと思いますが・・・
太宰の最後の作品は『如是我聞』でした。
仏教徒ならご存知のとおり、お経に必須のフレーズ、
「如是我聞」=「私は(お釈迦さまから)このように聞いた」。
なぜ太宰がこのタイトルにしたのかわかりませんが、
内容は、自分を認めない文壇に対する罵詈雑言・恨みつらみです。
志賀直哉を名指しで「馬づら」呼ばわりするなど、
ゲスすぎて爽快とも言える悪態のつき方で、
この作品の連載途中で太宰は自殺しました。
今でこそベストセラー作家の太宰ですが、生きている間は借金まみれ、
ほとんどの作品が1000部売れるかどうかといった有様で、
芥川賞ほしさに大御所に懇願して回るなどの「恥の多い人生」だったそうです。
『如是我聞』の冒頭部分はこうです。
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他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ。
敵の神をこそ撃つべきだ。でも、撃つには先ず、敵の神を発見しなければならぬ。
ひとは、自分の真の神をよく隠す。
これは、仏人ヴァレリイの呟(つぶや)きらしいが、
自分は、この十年間、腹が立っても、抑えに抑えていたことを、
これから毎月、この雑誌(新潮)に、どんなに人からそのために、
不愉快がられても、書いて行かなければならぬ、
(中略)
一群の「老大家」というものがある。
私は、その者たちの一人とも面接の機会を得たことがない。
私は、その者たちの自信の強さにあきれている。彼らの、その確信は、
どこから出ているのだろう。所謂、彼らの神は何だろう。
私は、やっとこの頃それを知った。
家庭である。
家庭のエゴイズムである。
それが結局の祈りである。私は、あの者たちに、あざむかれたと思っている。
ゲスな言い方をするけれども、妻子が可愛いだけじゃねえか。
(『如是我聞』)
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これを読んで、「諸悪の根源は、家庭のエゴイズム」という考えが、
嫁入り前の10代の私に、しっかり刷り込まれてしまったのであります。
家庭を大事にするのは人のサガだが、
それは褒められるような話ではないな、と。
大人になった現在でも、これはあながち間違いではないと思います。
サラリーマンだからよくわかりますが、
たとえば「粉飾決算に目をつぶる」「世の中の害になることを
自社のために敢行する」「他人を蹴落とす」といったことをするとき、
別に悪事を働くつもりでやるわけではなく、煎じ詰めれば、
「今の収入を守りたい、家族のために」と思っていたりします。
そういったベースがあったために、
王子の責任も、妻子も捨てて、29歳で失踪してしまったお釈迦さまを、
何の躊躇もなく「かっこいい・・・・
」と思ったのでしょう。
自分がお釈迦さまの嫁だったら、こんな無責任な男はいない、
と激怒したでしょうがね。
(なので、数年前にわりとヒットした新書、
『ブッダはなぜ子を捨てたか』は、読みましたが、乗れませんでした。
「なぜ捨てた」という問題設定自体が違和感があったし、
著者の思い込みたっぷりすぎる文章がピンときませんでした)
そうこうしていたら、また太宰フレーズを思い出してしまいました・・・。
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ヴァレリイの言葉、――善をなす場合には、いつも詫びながらしなければいけない。
善ほど他人を傷つけるものはないのだから。
(『美男子と煙草』)
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頼まれもしないのに、嬉々として他人に善をなす・救済しようとする、
それは「権力の行使」と紙一重である、ということが、
またも10代の私に強烈に刷り込まれました。
原始仏典「サンユッタ・ニカーヤⅡ」のなかに、こんな記述があります。
悪魔が、お釈迦さまに「そなたはなぜ、他人を教えさとすのか?」と訊きます。
お釈迦さまは「かれらに問われて、われは説く」と答えます。
注釈(中村元氏)は、「問われたならば、答える」という仏教の明確な態度を
認めることができる、としています。
あと、佐々木閑(花園大学教授)は原始仏教について、
「ジャングルの中を歩く道を私は見つけた。
その道を正しいと思う人は、私と一緒に歩きましょう」というのが、
お釈迦さまの態度だと書いていました。
歩くのは、あくまで自分であって、
だからお釈迦さまに対する帰依は、「信仰」でなく「信頼」だと。
そういう、お釈迦さまの、救済を押し付けない控えめな態度を、
「かっこいい・・・
」と思いました。
それは、先ほどのヴァレリィの言葉がベースにあったからかもしれません。
なんだか太宰病が意外と尾を引いているようであります。
10代の子が太宰を読んでいたら、
親御さんは心したほうがいいですよ。太宰病は尾を引くので。
- 太宰治全集〈10〉 (ちくま文庫)/太宰 治
「如是我聞」所収。青空文庫でも全文読めますが。 - ¥998
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- ブッダは、なぜ子を捨てたか (集英社新書)/山折 哲雄
私は乗れなかったが、わりと話題になった本。 - ¥714
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『人間失格』の最後の言葉
またも太宰治の『人間失格』が映画化
されたそうで、
書店に主演・生田斗真のポスターがたくさん貼られていました。
ご多分にもれず、私も高校生のころ「太宰病」にかかりました
(太宰病=太宰だけは私の苦悩をわかってくれる、
などと思い込む思春期の病)
太宰が自殺する1か月前に完成した『人間失格』にも、
当然ながらハマりました。
睡眠薬中毒者が”陰惨な半生”を振り返る手記
(実はユーモアにも溢れているのですが)とされる『人間失格』、
読んだ方は、最後を覚えているでしょうか。
「脳病院」にブチ込まれて、「廃人」と化した主人公は、
ボロボロの家で女中・テツと暮らしています。
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自分は仰向けに寝て、おなかに湯たんぽを載せながら、
テツにこごとを言ってやろうと思いました。
「これは、お前、カルモチンじゃない。ヘノモチン、という」
と言いかけて、うふふふと笑ってしまいました。
「癈人」は、どうやらこれは、喜劇名詞のようです。
眠ろうとして下剤を飲み、しかも、その下剤の名前は、ヘノモチン。
いまは自分には、幸福も不幸もありません。
ただ、一さいは過ぎて行きます。
自分がいままで阿鼻叫喚で生きて来た所謂「人間」の世界に於いて、
たった一つ、真理らしく思われたのは、それだけでした。
ただ、一さいは過ぎて行きます。
自分はことし、二十七になります。
白髪がめっきりふえたので、たいていの人から、四十以上に見られます。
(完)
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※このあと「あとがき」がありますが。
この、「ただ、一さいは過ぎて行きます。」という感覚が、
子供心に強烈に残りました。
それから15年以上たって、「大パリニッバーナ経」で、
お釈迦さまの最後の言葉を知りました
(底本と訳によって微妙に違うでしょうが)。
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「もろもろの事象は過ぎ去るものである。
努力して修行を完成させなさい」
これが如来の最後の言葉であった。
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お寺の子でもない限り、
はじめから仏教を意識することは少なくて、
何かが積み重なって、大人になってから
「どうも自分には仏教がぴったりくるようだ」
と発見する人は少なくないと思います。
私の場合、積み重なった多くのものの一つは、
「ただ、一さいは過ぎて行きます。」
だったような気がします。そんなことを思い出しました。
『人間失格』全文
↓
http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/301_14912.html
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難解さに泣きながら『中論』(2)
一昨日の『中論』の続きです。
面白いなんて書きましたが、読み進めるにつれ、やはり難解で泣きそうになり、
以下は中村元先生の解説の受け売り+自己流解釈です。
龍樹が、何にそんなに激しく論争をしかけたかというと、
説一切有部の「実有(自性=法に常恒の本質がある)」という
主張だったとされます。
説一切有部(一切が有ると説く)という名のとおり、
「有る」と主張したのですが、
さすがに「山」とか「牛」が有る、とは言っていません。
それらの自然的存在には、実体は無い、とお釈迦さまが明言してますからね。
でも、説一切有部は、
自然的存在の「ありかた」=お釈迦さまが説いた「法」には、
実体が有る、常恒の本質が有る、と主張したわけです。
説一切有部は、恐るべき分類マニアで、
毎日朝から晩まで考えて、「世界はこの75の要素でできている」
と結論づけたのが、有名な「五位七十五法」です。
↓この75。ひとさまのブログ。
http://blog.livedoor.jp/kazusa69/archives/50802809.html
75には、「水」とか「火」といったものは全く入ってなくて、
「受」とか「無明」とか、おなじみのダンマ(法)用語ばかりですよね。
それらの「法」が「実在する」と言われてもピンとこないのですが、
たとえばこんな問いを立てたら、貴殿はどう答えますかね?
Q.「すべては無常である」という命題も、無常なのか?
A1. はい、その命題も無常です。
反論→じゃあ、時と場合によっては「無常じゃないもの」が
ありえるということ? だったら、お釈迦さまは、
「真理=普遍的な命題」を発見したとは言えないじゃん。
A2. いいえ、その命題は無常ではなく、常に成り立ちます。
反論→じゃあ、その命題は常恒で本質なの?
お釈迦さまが「すべては無常」と言ったのと矛盾するじゃん。
・・・・悩みますね!
説一切有部もさんざん悩んだあげくに、A2を選んだのでしょう、
それが「法に実体が有る」「三世実有、法体恒有」の意味なのでは
(と私は理解しました)。
実際、実有であるとする「五位七十五法」に「句」=命題が入っています。
それに対して、龍樹は、「法にも実体などない=無自性」を主張したわけです。
法であっても独立したものでなく、相依相互関係=縁起によって成り立つ、
そのことを「空」と呼んだのだ(と中村先生も末木先生も書いています)。
これが、イコール「龍樹はA1を選んだ」ということなのかどうか、
まだ私にはわかりません(A1を選ぶのは、かなり重大な決断だ)。
だから、「空」=「なにも無い、nothing」という意味ではなくて、
「空=無自性=縁起」は、ほぼ同義だと。
龍樹自身が『廻諍論』で、
「空と縁起と中道とを同一の意義をもったものだと説きたもうた、
かの無比なる仏に敬礼し奉る」と書いているのです。
一昨日書いた、『中論』2章の
「過去に去ったものは現在去ることはできない。
未来のものは、まだ現前してないから去ることはできない。」云々は、
「過去に去った、という『あり方』が実体だとしたら、
運動が成り立たない、おかしなことになるでしょ。
だから実体視する説一切有部さんは間違いなんですよ!」
という、龍樹独特の論法らしいのです。
では、法の捉え方として、
説一切有部と龍樹と、どちらに自分が共感するかというと、
これまた難しい問題ですね・・・。
イメージとしては、
説一切有部 =世界はグダグダのくらげだが、1本「法」という金串が刺さっている
龍樹(中観派)=世界はグダグダのくらげで、串に見えたのもグダグダの筋だった
こんな感じですか? 間違ってますか?
ここでまた疑問が沸いてきました。
・法が実体でも、そうでなくても、我々凡夫からすれば、
「正直、どっちでもいいじゃないの」と思うが、
凡夫の仏教徒にどう関係するのか?
・「縁起」と「空」が同じ意味なら、なぜ龍樹(と般若経)は
「空」という言葉にこだわるのか? 「縁起」でいいではないか。
これについては、また後日・・(力尽きてなければ)。
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