五木寛之『親鸞』で何度目かの親鸞上人熱
五木寛之氏の『親鸞』がベストセラーとなり、
本屋さんには「親鸞」関係書棚ができたりしています。
ほんとうに、親鸞は日本人に愛されていますね。
「怠ることなく常に修行に励め」と説いたお釈迦さま、
「念仏を唱えるだけで、阿弥陀様にお任せせよ」と説いた親鸞上人。
お釈迦さまが「ビリーズ・ブート・キャンプ」なら、
親鸞は「テープ巻くだけダイエット」。
どちらが”効く”のかはわかりませんけれど。
人気抜群の親鸞上人ですが、
日本仏教研究の第一人者・末木文美士先生の『仏典をよむ』
(このブログで何度か触れてますが)を読んで、びっくりしました。
史料研究によってわかってきた親鸞は、
私たちのイメージとだいぶ違うそうなのです。
◆ 親鸞はマイナーな仏教者であった!
「当時、親鸞の教団も道元の教団も、きわめて小さなグループであった。
(中略)親鸞については同時代の外部の資料がまったくなく、
近代になって、親鸞非実在論さえささやかれるほどであった。
それゆえ、新仏教中心主義論の常識とは逆に、鎌倉時代の仏教を語る上では、
親鸞はほとんど無視しても差し支えないマイナーな存在である。
しかし、その集団が堅固な団結によって中世の混乱の中を持ちこたえ、
蓮如によって一気に巨大勢力にのし上がり、一向一揆を起こすに至る。
そして江戸時代における浄土真宗の定着を基盤に、近代になって、
それまでほとんど顧みられることのなかった『歎異抄』の流行を
手がかりに、親鸞の思想が大きく注目されるようになったのである」(P220)
そうだったんですか!
流罪になって、強制的に還俗させられ、妻帯して「非僧非俗」を訴えた親鸞。
少数派だからこそ、そのグループが先鋭的な火の玉集団となったのかもしれません。
◆ 『歎異抄』が親鸞の真意かどうか疑問あり!
「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」(『歎異抄』第3条)。
「善人ができるのだから、ましてや悪人こそ往生できる」という、
悪人正機説は、親鸞思想のなかでもっとも有名でしょう。
『歎異抄』13条でも、同様の主張を明確に書いていて、
「ではどんな悪もやりたい放題か?」と当時から問題になっていました。
ところが、末木先生は、これを「そのまま親鸞説と認めていいかどうか、
かなり難しいところがある」と書いているのです。
『歎異抄』は親鸞作でなく、親鸞から聞いた話を弟子が記したとされ、
作者ははっきりわかっていません。
末木先生いわく、親鸞の法語・書簡集『末灯鈔』では逆のことを書いていると。
「『不可思議の放逸無慙のものどものなかに、悪はおもうさまにふるまって
よいと仰っているのは、かえすがえすもあってはならないことである』
(『末灯鈔』)
これが親鸞の基本的な姿勢であった。どんなに弥陀の誓願に身を任せたと
しても、悪はどこまでも恐れ、なされないようにしなければならない。
ところが、『歎異抄』13条では、明らかにこのような親鸞の態度と異なり(以下略)」
(P241)
「親鸞は晩年、今度は自分自身が弟子たちの放逸無慙の言動に悩まされ、
厳しく誡めるようになっている。それがここ(『歎異抄』)では改めて、
造悪無碍的な言動を肯定しているのである」(から、それは疑問である) (P241)
そうだったんですか・・・。
「悪人正機説」については、さまざまな解釈がなされて、
キリスト教の「原罪≒人は生まれながらに悪である」的な説明もあるようですが、
いまだ私には、しっくりきません。
もし、これが親鸞の真意でなかったら???
親鸞に怒られた悪い弟子が、自己正当化のために書いたものだったら!??
日本仏教界、大パニックであります。
今後の史料研究の成果が待たれるところです。
末木先生は、これについて『解体する言葉と世界』で書いているそうなので、
そのうち読んでみるつもりです。
ところで、五木寛之先生は、自分の写真のアングルにうるさいと有名で、
カッコよい自分をきちんとプロデュースしているそうです。
山ほど仏教関係書を書いても、自己への執着を絶ちがたいのが人間なのですね。
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交響曲「釈迦」と、勝新のディーバダッタ
お釈迦さまの生涯を、交響曲にしたものです。
作曲は、あの伊福部昭!「ゴジラ」のテーマ曲をつくった現代音楽家です。
私もこの交響曲は聴いたことがなかったのですが、
検索していたらニコニコ動画に載っていることを発見。
下に貼り付けてみました。
第1楽章 カピラバスツの悉達多
第2楽章 ブダガヤの降魔
第3楽章 頌偈
聞いてみて・・・まぁなんというか、
伊福部先生ですから、泣けるとかノレるという感じではありません。
坂本龍一のような「アジアでございます」というわざとらしさもなく。
合唱のある3楽章が、とっつきやすいのではないでしょうか。
この交響曲って、映画『釈迦』('61年・大映)のサントラなんですねぇ。
私は未見なのですが、DVDのジャケットを見た感じでは
巨額をつぎ込んだトンデモ映画の匂いがプンプンします・・。
でも、絶対見るつもりです!
だって、すごい豪華キャストのスペクタル巨編なんです。
なんといっても、釈迦に反抗して僧団を割って出た悪役・ディーヴァダッタが、
勝新太郎なんですよ!
ほかにも、クナラ王子=市川雷蔵、アショカ王=中村雁治郎、ゴータミー=中村玉緒、
川崎敬三も川口浩も京マチ子も出ていて、まさにオールスターズです。
お釈迦さまは、本郷功次郎という、イマイチ地味なのですがね。

仏教学者の佐々木閑先生が、たしか『日々是修行』のなかで、
「子供の頃、親と行った映画『釈迦』でも、よくわからず、
ディーヴァダッタの恐ろしさばかりが印象的だった」みたいなことを
書いていましたが、先生、それは当然です! だって勝新ですよ!
勝新のディーヴァダッタを見るだけで、価値がありそうな映画です。
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若者のようなおもむき『金剛般若経』
今年は大乗仏教の基本経典も、ポツポツと読み直そう、
読まないことには話にならない、と思って、
まずは大乗最初期の「金剛般若経」から。
大乗仏典は、釈迦に聞いた言葉をまとめたわけではなくて、
1~2世紀の新しい仏教徒(在家が中心?)が、
あふれる信仰心を炸裂させて創作した「宗教的文芸作品」(By 中村元先生)
であると思って読めば、非常に香ばしいものでありました。
◆金剛般若経◆
「般若経」は膨大にありますが、そのもっとも原初的なのが、
この「金剛般若経」(紀元150~200年の成立か)。
般若経と言えば、「空」を説いたややこしいイメージがありますが、
原初的なだけあって、金剛般若経は初心者でも読みやすい。
「空」という言葉を使うことなく、
その基本的な思想を感じることができます。
「金剛教は大乗思想が固定化・定式化する以前のものであり、
清新な思想のいぶきが感ぜられる。
自分の体験している思想をどう表現してよいのか、
適当な表現が見つからなくて、もどかしさを感じている
若者のようなおもむきがある。
だから後代の大乗経典のような、ペダンチックないやらしさが
感せられない」(中村元氏の解説)
というのは、言い得て妙でした。
金剛般若経は、この「スプーティ(須菩提)」さんに語りかける形式です。
この経典では、たとえば
・如来は「生きているものどもを救った」などという考えは浮かばない。
そんな考えが浮かぶのは、自我・固体・個人に対する執着があるからだ。
・功徳を積む、功徳を積むということは、積まないことだ。
・求道者・すぐれた人々は、法を取り上げてもいけないし、
法でないことを取り上げてもいけない。
などなどと説いています。このへんはよくわかります。
(現代でも、「社会に貢献してます」「地球を救う運動してます」などと
自称して声高に言う人は、たいしたことなかったりしますよね)。
その立場にもとづいて、
「悟りは悟りでない」「ニルヴァーナに達することはありえない」等の
「ないないづくし」の否定攻撃を展開します。
当時の上座仏教の人たちは、これを読んで、さぞ怒り狂ったでしょうね!
いや、大乗が勢力を持つ前だから、上座仏教の出家者からすれば、
「また在家が勝手なことを言っとるわ。これだからトーシロはいやだね」
と黙殺していたかもしれません。
ここでふと思い出したのが、唐突ですが、長島茂雄さんです。
長島さんは、打撃の指導をするときに、
「来た球を、パーンと打つんだよ」みたいなことしか言わなくて、
ちっとも指導にならなかった伝説があります。
野球如来からすれば、バットの角度とか、手足をこう動かしてなどは、
認識に上ってこなかった、つまり「ない」も同然だったのでしょう。
結局、脳が認知することは、違和感や欠落や比較・対立であって、
まん丸く満たされている人は、何も認知しないのかもしれません。
(仏教の法話では、よく悟りを「自転車」に例えますよね。
一度乗れるようになれば、何も意識せず乗れる、と)
金剛般若経の作者がいう「ない」は、nothingの意味ではなくて、
自分と他人の区別、悟りと迷いの区別、有と無との区別などの
2項対立を超えた、まん丸世界を意味しているとされます。
よくわからないなりに、
金剛般若経は読みやすいですよ、ほんと。
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