若者のようなおもむき『金剛般若経』
今年は大乗仏教の基本経典も、ポツポツと読み直そう、
読まないことには話にならない、と思って、
まずは大乗最初期の「金剛般若経」から。
大乗仏典は、釈迦に聞いた言葉をまとめたわけではなくて、
1~2世紀の新しい仏教徒(在家が中心?)が、
あふれる信仰心を炸裂させて創作した「宗教的文芸作品」(By 中村元先生)
であると思って読めば、非常に香ばしいものでありました。
◆金剛般若経◆
「般若経」は膨大にありますが、そのもっとも原初的なのが、
この「金剛般若経」(紀元150~200年の成立か)。
般若経と言えば、「空」を説いたややこしいイメージがありますが、
原初的なだけあって、金剛般若経は初心者でも読みやすい。
「空」という言葉を使うことなく、
その基本的な思想を感じることができます。
「金剛教は大乗思想が固定化・定式化する以前のものであり、
清新な思想のいぶきが感ぜられる。
自分の体験している思想をどう表現してよいのか、
適当な表現が見つからなくて、もどかしさを感じている
若者のようなおもむきがある。
だから後代の大乗経典のような、ペダンチックないやらしさが
感せられない」(中村元氏の解説)
というのは、言い得て妙でした。
金剛般若経は、この「スプーティ(須菩提)」さんに語りかける形式です。
この経典では、たとえば
・如来は「生きているものどもを救った」などという考えは浮かばない。
そんな考えが浮かぶのは、自我・固体・個人に対する執着があるからだ。
・功徳を積む、功徳を積むということは、積まないことだ。
・求道者・すぐれた人々は、法を取り上げてもいけないし、
法でないことを取り上げてもいけない。
などなどと説いています。このへんはよくわかります。
(現代でも、「社会に貢献してます」「地球を救う運動してます」などと
自称して声高に言う人は、たいしたことなかったりしますよね)。
その立場にもとづいて、
「悟りは悟りでない」「ニルヴァーナに達することはありえない」等の
「ないないづくし」の否定攻撃を展開します。
当時の上座仏教の人たちは、これを読んで、さぞ怒り狂ったでしょうね!
いや、大乗が勢力を持つ前だから、上座仏教の出家者からすれば、
「また在家が勝手なことを言っとるわ。これだからトーシロはいやだね」
と黙殺していたかもしれません。
ここでふと思い出したのが、唐突ですが、長島茂雄さんです。
長島さんは、打撃の指導をするときに、
「来た球を、パーンと打つんだよ」みたいなことしか言わなくて、
ちっとも指導にならなかった伝説があります。
野球如来からすれば、バットの角度とか、手足をこう動かしてなどは、
認識に上ってこなかった、つまり「ない」も同然だったのでしょう。
結局、脳が認知することは、違和感や欠落や比較・対立であって、
まん丸く満たされている人は、何も認知しないのかもしれません。
(仏教の法話では、よく悟りを「自転車」に例えますよね。
一度乗れるようになれば、何も意識せず乗れる、と)
金剛般若経の作者がいう「ない」は、nothingの意味ではなくて、
自分と他人の区別、悟りと迷いの区別、有と無との区別などの
2項対立を超えた、まん丸世界を意味しているとされます。
よくわからないなりに、
金剛般若経は読みやすいですよ、ほんと。
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