難解さに泣きながら『中論』(2)
一昨日の『中論』の続きです。
面白いなんて書きましたが、読み進めるにつれ、やはり難解で泣きそうになり、
以下は中村元先生の解説の受け売り+自己流解釈です。
龍樹が、何にそんなに激しく論争をしかけたかというと、
説一切有部の「実有(自性=法に常恒の本質がある)」という
主張だったとされます。
説一切有部(一切が有ると説く)という名のとおり、
「有る」と主張したのですが、
さすがに「山」とか「牛」が有る、とは言っていません。
それらの自然的存在には、実体は無い、とお釈迦さまが明言してますからね。
でも、説一切有部は、
自然的存在の「ありかた」=お釈迦さまが説いた「法」には、
実体が有る、常恒の本質が有る、と主張したわけです。
説一切有部は、恐るべき分類マニアで、
毎日朝から晩まで考えて、「世界はこの75の要素でできている」
と結論づけたのが、有名な「五位七十五法」です。
↓この75。ひとさまのブログ。
http://blog.livedoor.jp/kazusa69/archives/50802809.html
75には、「水」とか「火」といったものは全く入ってなくて、
「受」とか「無明」とか、おなじみのダンマ(法)用語ばかりですよね。
それらの「法」が「実在する」と言われてもピンとこないのですが、
たとえばこんな問いを立てたら、貴殿はどう答えますかね?
Q.「すべては無常である」という命題も、無常なのか?
A1. はい、その命題も無常です。
反論→じゃあ、時と場合によっては「無常じゃないもの」が
ありえるということ? だったら、お釈迦さまは、
「真理=普遍的な命題」を発見したとは言えないじゃん。
A2. いいえ、その命題は無常ではなく、常に成り立ちます。
反論→じゃあ、その命題は常恒で本質なの?
お釈迦さまが「すべては無常」と言ったのと矛盾するじゃん。
・・・・悩みますね!
説一切有部もさんざん悩んだあげくに、A2を選んだのでしょう、
それが「法に実体が有る」「三世実有、法体恒有」の意味なのでは
(と私は理解しました)。
実際、実有であるとする「五位七十五法」に「句」=命題が入っています。
それに対して、龍樹は、「法にも実体などない=無自性」を主張したわけです。
法であっても独立したものでなく、相依相互関係=縁起によって成り立つ、
そのことを「空」と呼んだのだ(と中村先生も末木先生も書いています)。
これが、イコール「龍樹はA1を選んだ」ということなのかどうか、
まだ私にはわかりません(A1を選ぶのは、かなり重大な決断だ)。
だから、「空」=「なにも無い、nothing」という意味ではなくて、
「空=無自性=縁起」は、ほぼ同義だと。
龍樹自身が『廻諍論』で、
「空と縁起と中道とを同一の意義をもったものだと説きたもうた、
かの無比なる仏に敬礼し奉る」と書いているのです。
一昨日書いた、『中論』2章の
「過去に去ったものは現在去ることはできない。
未来のものは、まだ現前してないから去ることはできない。」云々は、
「過去に去った、という『あり方』が実体だとしたら、
運動が成り立たない、おかしなことになるでしょ。
だから実体視する説一切有部さんは間違いなんですよ!」
という、龍樹独特の論法らしいのです。
では、法の捉え方として、
説一切有部と龍樹と、どちらに自分が共感するかというと、
これまた難しい問題ですね・・・。
イメージとしては、
説一切有部 =世界はグダグダのくらげだが、1本「法」という金串が刺さっている
龍樹(中観派)=世界はグダグダのくらげで、串に見えたのもグダグダの筋だった
こんな感じですか? 間違ってますか?
ここでまた疑問が沸いてきました。
・法が実体でも、そうでなくても、我々凡夫からすれば、
「正直、どっちでもいいじゃないの」と思うが、
凡夫の仏教徒にどう関係するのか?
・「縁起」と「空」が同じ意味なら、なぜ龍樹(と般若経)は
「空」という言葉にこだわるのか? 「縁起」でいいではないか。
これについては、また後日・・(力尽きてなければ)。

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