仏教は「真理」ではない!? 『縁起と空』その2
数日前に、『縁起と空ー如来蔵思想批判』(松本史朗著)について
少し書きましたが、
http://ameblo.jp/nibbaana/entry-10523346238.html
氏はお釈迦様の「法」は「真理」ではない!と主張します。
この劇薬部分を、備忘録として、そのままメモしておきます。
学問的にあーだこーだいうだけの知識が私にないので。
しかし、この松本氏の宗教的パッションは凄い。
◆ 「一切は無常」という命題は無常か?
松本氏はまず、和辻哲郎氏の著書を引用します。
和辻説『原始仏教の実践哲学』より
「しかしながら、<一切は無常である>との命題の示す意義そのものは、
果たして無常であろうか。
この意義も時間的な有者であるならば、それは推移し転変し、
仏説の法としてあらゆる時代に妥当することはできぬであろう。
経典は<法>をかくのごときものとは見なかった。
ブッダは世間無常という<法>の域外に立たずして過ぎ行いたが、
<法>そのものは長時間的に妥当する」
「したがって、それ(法)は自性を持たせねばならぬ」
以下は、これに対する松本氏の反論と主張を抜粋。
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◆ 仏教を「真理」とするのは最悪の理解
私は「法」の語義に関する諸学者の理解のうち最悪のものは、
「法」は”真理”を意味し、かつ”個物”をも意味する、
というものだと思っている。
今、仏教書や仏教学の解説書には「真理」という言葉が満ち溢れている。
この「真理」という考え方こそ、仏教を永く非仏教と化してきた
最大の功労者なのだ。
それは如来蔵思想としてインドで完成し、中国では老子の哲学とも結びついて、
「理」の哲学を生み出していく。
法は確固不変なるものではなく、反対に実に不安定な宙ぶらりんな
危機的存在なのだ。
我々の生に存在論的な根拠などどこにもない。
我々がこの不安定な危機的な諸法の時間的縁起系列としてのみ存在しているのだ。
◆ 「縁起」も普遍的な理法ではない
”縁起”(paticcasamuppada)とは「縁りて生じること」という意味で、
いうまでもなく抽象名詞だ。
この抽象名詞がつくられたとき、仏教の実在論への果てしない
転落が開始されたのだ。
縁起説が、十二支縁起が扱うのは、そんな平板な日常的素朴的な現実
なのではなく、存在することが確たる根拠を持たない危機的な生なのだ。
”縁起”を普遍的な理法と考えるなら、
当然、仏が出生しようとしまいと、その真理は存在する。
もはや釈尊は必要ではない。仏は必要ではない。
ただ”縁起”の理法さえあればよい。
釈尊はたまたま古城を発見した旅人のように、この理法を発見したにすぎない。
このように、釈尊よりも理法を重んじる態度を、
私は仏教徒として恥ずべきことに思う。
◆「悟り」とは真理の発見でなく、言葉による創造だ
我々が「真理」や「理法」があると考えるのは、「悟り」があると思うからだ。
私は「悟り」とか「目ざめ」(bodha)という言葉に、
極めて非宗教的なひびきを感じる。
原始仏典といわれるものに、「悟り」と訳されるような様々な言葉が頻出するのを
好ましく思ってはいない。仏教がいつまでも「悟り」の宗教とみなされるなら、
それは仏教に寄生してしまった非宗教性、つまり仏教が荷わされている業なのだ。
袴谷先生の「縁起と真如」というご論文は、悟りを縁起という真理の発見と解する
一般的理解に対する痛烈な批判である。
私は、「悟りとは、発見でなく言葉による創造だ」とたえず私に力説された
袴谷先生から、どれほど大きな影響を受けたかわからない。
◆ 足下に深淵を望むような恐ろしさ
私が強調しなければならないのは、「諸法」の全くあぶなげな、
時間的な宙ぶらりんな性格なのだ。
それはlocus(基体)なき Super-locusであり、
基体(個物)なき属性であり、存在ともいえないあやふやな存在なのだ。
それはlocus(基体)なき Super-locusということの恐ろしさを
よく理解してもらいたい。
それは、足下に深淵を望むようだ。
この恐ろしさにたえきれず、根源とか存在論的根拠とかがなくては
生きていけない人は、下の大地に勝手に”唯一の実在”を作り上げて、
自己とか自我を主張していればよい。
誠に、”私”が存在していると信じている人は、幸せな人だ。
ただその根源とか実在だとかが仏教だと言われるならば、
私はそれを認めるわけにはいかない。
(※ここで松本氏が「根源」と言ってるのは、アートマンだけではなく
「真理」も含め一切の”普遍的”と概念を意味していると思われます)
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うーむ。みなさんどう思われますか。
お釈迦さまに聞いてみたい。
「一切は無常である」という命題は普遍的でしょうか。
それとも無常(=いつか変わるかもしれない)なのでしょうか。
お釈迦さま、意外と「別にどっちでもいいんじゃない?」と答えられたりして。
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釈尊伝研究の、ものすごいHP
今年のウェーサーカ祭での公演は、東洋大学の森章司名誉教授でした。
テーマは、原始経典に見る釈尊の実像、
特に「釈迦教団」は実在したか?というものでした。
この森先生の研究グループのホームページがものすごい!
原始仏典の膨大なピースをパズルのように組み合わせ、
お釈迦さまの生涯を詳細に組み上げるという研究を
20年にわたって続けていらっしゃるのです。
で、その膨大な論文が、pdfファイルで読めてしまうのです。
キーワード検索もでき、無料で資料が読めるとは、
こんなことが許されていいのか?というぐらい。
森先生ご自身が「ぜひ読んでください」とおっしゃっていたので、
恐縮しながら、追々拝読させていただきます。
「中央学術研究所
原始仏教聖典資料による釈尊伝の研究」
http://www.sakya-muni.jp/
森先生いわく、最終的にはお釈迦さまの詳細な伝記にしたいと。
なので、各論文のテーマも
「入滅80歳は数え年齢?満年齢?」とか
「祇園精舎で何回の説法をされたか」とか
「サンガ内の多数決はどのように行われたか」とか、
微に入り細に入りなのです。
あらゆる原始仏典を読み込むだけでなく、現地調査報告も。
偉大な研究をしている人がいるものだなぁ。
<同ホームページの導入解説より>==========================
このホームページは「原始仏教聖典資料による釈尊伝の研究」と題する研究の成果を、
不定期の逐次刊行物として発行している「モノグラフ」(特定の問題を専門的に取り扱った
研究論文集)に発表したすべての論文と資料集の一部、ならびにこの研究に関わる未刊
行の現地調査報告と他機関の紀要類に発表した論文を電子データとして公開したものです。
「原始仏教聖典資料による釈尊伝の研究」というのは、お釈迦さまの生涯と阿難や舎利弗・
目連、摩訶迦葉、提婆達多などの仏弟子たちの生涯、ならびにそのサンガ(教団)の形成史を、
原始仏教聖典のほかに注釈書文献なども参照しながら明らかにしようとする研究で、
宗教法人立正佼成会の一機関である中央学術研究所の事業の一端(委託研究)として、
森章司を研究代表者とする数人の研究者グループによって、平成4(1992)年に始められたものです。
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私は幸せでありますように ウェーサーカ祭
5月8日、日本テーラワーダ協会主催の「ウェーサーカ祭」に行きました。
上座仏教では、お釈迦さまの誕生・成道・般涅槃(入滅)が同じ日とされ、
この祝祭記念がウェーサーカ祭です。
わからないなりに仏典や仏教専門書を読んだりする日々ですが、
この5月8日は、いろいろな意味で初心に帰ることができました。
◆私は幸せでありますように
昨年もそうでしたが、A.スマナサーラ長老のリードで、
まず「慈悲の瞑想」Metta Bhâvanâ を行います。
その冒頭の言葉はこれです。
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私は幸せでありますように
私の悩み苦しみがなくなりますように
私の願いごとが叶えられますように
私に悟りの光が現れますように
私は幸せでありますように(3回)
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よく言われる「生きとし生けるものが幸せでありますように」
も出てくるのですが、最初は「私」の幸せを唱えるのです。
なんで仏教に足を踏み入れたのか。思い起こせば、
やっぱり「私が幸せである」ためだったわけです。
仏教以前に、個人的な人生経験上、
私が幸せでなく、自分の欠落を埋めるために、
「世のため人のため」という大義名分に依存すると、
いちばんタチの悪い事態となります。
まずは自分が冷たく青い満月のようになりたい。
慈悲の瞑想についての協会の解説
http://www.j-theravada.net/3-jihi.html
◆ お釈迦さまは道先案内人
「お釈迦さまは、卒業するまでの先生です。
道先案内人なのです。それだけです」
スマナサーラ長老は、
そういった意味のことを法話で話されました。
佐々木閑先生の著書『犀の角』にも、全く同じことが
書かれていました。
これが、私にとってのお釈迦さまであり、仏教なのだと再確認。
それ以上の何を求める必要があるでしょうか。
◆ 宗教は総合芸術
パーリ語の節回し、韻を踏んだお経。
仏旗の色、僧衣の壊色、釈迦像、献花。
今年のスナナサーラ長老は、スッタニパータをパーリ語で
読みながら解説してくれました。
ふだんは、文字で、しかも日本語の現代訳で読んでいて、
それも素晴らしく美しいですが、
やはり価値の半分もわかってないのだと思いました。
名曲の歌詞を文字で読んでもわからないのと同じように。
映画は総合芸術だと言われますが、宗教も、
色と音と感覚と六根総動員で感じるものだと、当たり前のことを再認識。
意味に閉じ込めてはいけないですよね。
テーラワーダ協会のHPに
三法帰依などのパーリ語音声ファイルがあります。
http://www.j-theravada.net/raihai.html#raihai
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