釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~ -180ページ目

鳥の声も仏の教え 「阿弥陀経」の意外

浄土三部教の3つめ、「阿弥陀経」を読みました。
日本では、法然の浄土宗は「観無量寿経」、
親鸞の浄土真宗は「無量寿経」、
一遍の時宗は「阿弥陀経」を特に重視した傾向があるそうです。


浄土とは、阿弥陀とは、を書いた短いお経で、
これといって印象に残るところはありませんでしたが、
一箇所、興味深い節がありました。


「かの仏国土には、白鳥や帝釈鴫(たいしゃくしぎ)や孔雀がいる。
かれらは夜に三度、昼に三度集まって合唱し、また各々の調べをさえずる。
かれらがさえずると、五根と五力と、覚りに至るための七つの要件を
解き明かす声が流れ出る。(中略)
かれら生ける者どもは畜生の領域にいるのだろうか。
否、このように見なしてはいけないのだ

かの仏国土には、地獄の名もなく、畜生という名もなく、
ヤマ(死神)の世界もないからである。
しかしかれら鳥どもの群は、かの無量如来によって化作(けさ)
されたものであって、法を解き明かす声を発するのだ


次の節では、
「ターラ樹の並木」が風に吹かれると、妙なる快い音が流れ出て、
聞いた人々は仏を念ずる心が起こる、とあります。


「観無量寿経」でも、
仏と菩薩とが虚空に満ちているのを観るとき、
水のせせらぎ、鳥の啼く声、林のざわめき、仏たちの音声が
みなすぐれた教法を説いており・・・無量寿仏の化身は無数であって・・・

という文言が出てきました。


釈迦むに・スーパースター ~仏教のつれづれ~  

ヤシ科のターラ樹。浄土にはこの並木があるとされる。

インドの経典は、樺の皮か、またはターラ樹の葉「貝葉(ばいよう)」に書かれているそうです


このへんの自然観が、ちょっと日本的?と思って、意外だったのです。
原始仏典では、鳥や草木に仏性を見る表現は多分なかったと思います。
(いや、私が読んでないものに出てくるのかも)。


もちろん仏教には「生きとし生けるものに幸せを」という思想もあるのですが、
やはり動物は畜生だし、植物は有情(感情を持った生き物)としない。
古代インドでは、人間とそれ以外、という線引きがあったのでしょう。
そこはむしろ、西洋に近いのかもしれません。


一方日本では、「山川草木悉有仏性」「草木国土悉皆成仏」、
草木も含めて自然にはことごとく仏性がある、成仏する、
という考え方が発達しましたよね。
日本人の私としては、一輪の花に合掌する心は持ち合わせているけれど、
仏教思想としてはちょっと変だよね、と思っていました。
(日本の独自性を主張するために、これを利用する思想家もいますしね)。


そういう前提があったので、
上の「阿弥陀経」
の「鳥を畜生とみなしてはいけない」というフレーズを

意外に思ったのでした。



釈迦むに・スーパースター ~仏教のつれづれ~  孔雀。瑠璃や金の七宝好きな浄土教がいかにも好みそう。


でも精査すると日本の草木悉有とは全然違うのかもしれません。
一輪を椿を見て、「この花も成仏する」と思うのと、
「この花は仏の化身である」と思うのは、似て非なる気がします。
浄土教は後者ですよねえ。


文庫本の解説を読むと、
浄土教にはバラモンーヒンズーの影響が見られるそうです。
たとえばヴィシュヌ神は、亀や魚など10種類の化身として現れますが、
むしろそちらに近いのかも・・・と思ったりしました。

仏教の自然観に関する本もたくさんあるので、いつか読まねばなりませんな。


この文庫本の下巻のほうは、かなり解説が充実していてお勧めです。


浄土三部経〈下〉観無量寿経・阿弥陀経 (岩波文庫)


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死の床で読みたい「観無量寿経」

だいぶ前ですが、「観無量寿経」を読みました(『浄土三部経』下巻)。

死の床までもお釈迦さまのクールな教えで通せればよいのですが、
もし気が弱って耐えられなくなったら、死の直前にころりと転向して、
最後はこの「観無量寿経」だな!
と目処をつけました。


上巻の「無量寿経」を読んだときに、阿弥陀におすがりして浄土へ、
というイメージと意外と違ったのですが、
「観無量寿経」はまさに大慈悲、救済の物語でした。


◆死の床に似合う理由1 脳内浄土に行ける


「観」とついているとおり、
脳内で仏国土を思い描く観想の手順が書かれています。
息子によって監禁された国王の、妃・ヴァイデーヒーに、
お釈迦さまが観想法を教えるのです。


まず沈む太陽を観て、目をつぶっても映像が再現できるようにする。
次に、清らかな水を、そうする。
次に、氷の透き通ったさまを、青玉でできた大地を、再現する。

という具合に深めていき、やがて阿弥陀のいる仏国土、
脳内浄土を構築できるようになるのです。

これなら、寝たきりで各種チューブに繋がれていても、
意識は浄土に行けるもしれません。
先日、布団の中で、最初の「太陽の観想」を行ったら、
すぐ寝てしまいました。寝つきがよいたちなのです。



◆死の床に似合う理由2 大救済団がやってくる


「ご来迎」と呼ばれる、死ぬときに阿弥陀さまが
迎えに来るシーンは、このお経に書かれていたのですね。
迎えに来るのは、阿弥陀如来と、脇持の観音菩薩・勢至菩薩、
さらに無数の化仏と諸神の大救済団です。


釈迦むに・スーパースター ~仏教のつれづれ~  死ぬときにやってくる救済団。

                          知恩院「阿弥陀二十五菩薩来迎図」。

観無量寿経では、人々を行いによって、偏差値のように、
上品・中品・下品×上生・中生・下生の9段階に分けます。
上品上生が一番上、下品下生が一番下です。


そして、最下位の下品下生でも、ちゃんとお迎えは来るのです!
この下品下生とは、親を殺すなどの五逆罪を犯した即地獄行きの悪人も含まれ、
無量寿経が救わなかった者が、観無量寿経だと救われることになっています。


命が終わろうとするとき、
地獄の猛火が一時に押し寄せてきて絶体絶命の瞬間に、
「南無阿弥陀仏」と唱えると、私は罪から逃れて、


地獄の猛火は変化して清く涼しい風になり、
さまざまな天の花を吹きそよがせる。
花の上には、みな化身の仏、化身の菩薩がいて、この人を迎え入れる。
一瞬のうちに<幸あるところ>という世界に生まれるのだ
」。


私は、宝石の池の、蓮花の中に生まれます。
9段階による違いは、蓮花の中での待機時間。
下品下生だと、12大劫ののちに、花が開いて仏国土の住人となれます。
ああ、これでもう、死ぬのも安心だ。



釈迦むに・スーパースター ~仏教のつれづれ~  九品のどれかによって来迎時の如来の印が違う。

図の引用元 http://pub.ne.jp/kenjin/?entry_id=2166813



9段階の条件も書かれているので、

自分がどれに当たるか考えるのも面白いですよ。
私は、よくて<中品中生>。
その上の中品上生は「五戒を守り」とあるので、酒飲みの私は不合格です。


しかしこの救済物語は、ほとんど釈迦仏教よりキリスト教に近いですね。
というのが、大乗経典の誹謗にあたるのであれば、
今、私は<下品中生>に堕ちました。
いずれにしても浄土に行けるのだから、別にかまいませんが。

浄土三部経〈下〉観無量寿経・阿弥陀経 (岩波文庫)/中村 元
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釈尊百景(6)椅子に腰掛けたお釈迦さま・深大寺


椅子に座ったお釈迦さまって、見たことがありますか?
私は見たことないのですが、あるんですねー。


深大寺・銅造釈迦如来倚像(重要文化財)


釈迦むに・スーパースター ~仏教のつれづれ~


深大寺の釈迦堂にある釈迦如来像は、なんと白鳳仏という古さ
(全高83.9㎝、坐高59.3㎝)。
調布市に、そんな古くて珍しい仏像があるとは知りませんでした。
今では倚像=椅子がけ珍しいですが、
奈良時代にはよく作られたそうです。


このお釈迦さまも瞑想中なのでしょうか?
それとも、単に座って休んでいるだけ?
お釈迦さまも人間ですから、
単に座ってボーッと涼むこともありますよね。インドは暑いし。



釈迦むに・スーパースター ~仏教のつれづれ~ 椅子瞑想か?



深大寺の解説によると
「この像は明治四十二年(1909)、柴田常恵氏により当寺元三大師堂の壇下から
見出されて注目を浴ぴるようになったものです。
これより少し前、明治三十一年(1898)の『深大寺明細帳』に二尺八寸の
釈迦如来銅像を挙げて「坐像に非ず、立像に非ず」と注記してあるのがこの像を指すと思われ、
いにしえ古法相宗であった時の本尊と伝えています。
依然の伝来は不明で、もともとは近くの祇園寺にあった、という伝えもあるとさえ言われてい

ます。当寺に関する古い記録や縁起でも触れられておらず、
この像の伝来や当寺との関係は今だなぞに謎に包まれています」


奈良・正暦寺の秘仏・薬師如来も椅子がけです。



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