鳥の声も仏の教え 「阿弥陀経」の意外
浄土三部教の3つめ、「阿弥陀経」を読みました。
日本では、法然の浄土宗は「観無量寿経」、
親鸞の浄土真宗は「無量寿経」、
一遍の時宗は「阿弥陀経」を特に重視した傾向があるそうです。
浄土とは、阿弥陀とは、を書いた短いお経で、
これといって印象に残るところはありませんでしたが、
一箇所、興味深い節がありました。
「かの仏国土には、白鳥や帝釈鴫(たいしゃくしぎ)や孔雀がいる。
かれらは夜に三度、昼に三度集まって合唱し、また各々の調べをさえずる。
かれらがさえずると、五根と五力と、覚りに至るための七つの要件を
解き明かす声が流れ出る。(中略)
かれら生ける者どもは畜生の領域にいるのだろうか。
否、このように見なしてはいけないのだ。
かの仏国土には、地獄の名もなく、畜生という名もなく、
ヤマ(死神)の世界もないからである。
しかしかれら鳥どもの群は、かの無量如来によって化作(けさ)
されたものであって、法を解き明かす声を発するのだ」
次の節では、
「ターラ樹の並木」が風に吹かれると、妙なる快い音が流れ出て、
聞いた人々は仏を念ずる心が起こる、とあります。
「観無量寿経」でも、
「仏と菩薩とが虚空に満ちているのを観るとき、
水のせせらぎ、鳥の啼く声、林のざわめき、仏たちの音声が
みなすぐれた教法を説いており・・・無量寿仏の化身は無数であって・・・」
という文言が出てきました。
ヤシ科のターラ樹。浄土にはこの並木があるとされる。
インドの経典は、樺の皮か、またはターラ樹の葉「貝葉(ばいよう)」に書かれているそうです
このへんの自然観が、ちょっと日本的?と思って、意外だったのです。
原始仏典では、鳥や草木に仏性を見る表現は多分なかったと思います。
(いや、私が読んでないものに出てくるのかも)。
もちろん仏教には「生きとし生けるものに幸せを」という思想もあるのですが、
やはり動物は畜生だし、植物は有情(感情を持った生き物)としない。
古代インドでは、人間とそれ以外、という線引きがあったのでしょう。
そこはむしろ、西洋に近いのかもしれません。
一方日本では、「山川草木悉有仏性」「草木国土悉皆成仏」、
草木も含めて自然にはことごとく仏性がある、成仏する、
という考え方が発達しましたよね。
日本人の私としては、一輪の花に合掌する心は持ち合わせているけれど、
仏教思想としてはちょっと変だよね、と思っていました。
(日本の独自性を主張するために、これを利用する思想家もいますしね)。
そういう前提があったので、
上の「阿弥陀経」の「鳥を畜生とみなしてはいけない」というフレーズを
意外に思ったのでした。
でも精査すると日本の草木悉有とは全然違うのかもしれません。
一輪を椿を見て、「この花も成仏する」と思うのと、
「この花は仏の化身である」と思うのは、似て非なる気がします。
浄土教は後者ですよねえ。
文庫本の解説を読むと、
浄土教にはバラモンーヒンズーの影響が見られるそうです。
たとえばヴィシュヌ神は、亀や魚など10種類の化身として現れますが、
むしろそちらに近いのかも・・・と思ったりしました。
仏教の自然観に関する本もたくさんあるので、いつか読まねばなりませんな。
この文庫本の下巻のほうは、かなり解説が充実していてお勧めです。
死の床で読みたい「観無量寿経」
だいぶ前ですが、「観無量寿経」を読みました(『浄土三部経』下巻)。
死の床までもお釈迦さまのクールな教えで通せればよいのですが、
もし気が弱って耐えられなくなったら、死の直前にころりと転向して、
最後はこの「観無量寿経」だな!と目処をつけました。
上巻の「無量寿経」を読んだときに、阿弥陀におすがりして浄土へ、
というイメージと意外と違ったのですが、
「観無量寿経」はまさに大慈悲、救済の物語でした。
◆死の床に似合う理由1 脳内浄土に行ける
「観」とついているとおり、
脳内で仏国土を思い描く観想の手順が書かれています。
息子によって監禁された国王の、妃・ヴァイデーヒーに、
お釈迦さまが観想法を教えるのです。
まず沈む太陽を観て、目をつぶっても映像が再現できるようにする。
次に、清らかな水を、そうする。
次に、氷の透き通ったさまを、青玉でできた大地を、再現する。
という具合に深めていき、やがて阿弥陀のいる仏国土、
脳内浄土を構築できるようになるのです。
これなら、寝たきりで各種チューブに繋がれていても、
意識は浄土に行けるもしれません。
先日、布団の中で、最初の「太陽の観想」を行ったら、
すぐ寝てしまいました。寝つきがよいたちなのです。
◆死の床に似合う理由2 大救済団がやってくる
「ご来迎」と呼ばれる、死ぬときに阿弥陀さまが
迎えに来るシーンは、このお経に書かれていたのですね。
迎えに来るのは、阿弥陀如来と、脇持の観音菩薩・勢至菩薩、
さらに無数の化仏と諸神の大救済団です。
知恩院「阿弥陀二十五菩薩来迎図」。
観無量寿経では、人々を行いによって、偏差値のように、
上品・中品・下品×上生・中生・下生の9段階に分けます。
上品上生が一番上、下品下生が一番下です。
そして、最下位の下品下生でも、ちゃんとお迎えは来るのです!
この下品下生とは、親を殺すなどの五逆罪を犯した即地獄行きの悪人も含まれ、
無量寿経が救わなかった者が、観無量寿経だと救われることになっています。
命が終わろうとするとき、
地獄の猛火が一時に押し寄せてきて絶体絶命の瞬間に、
「南無阿弥陀仏」と唱えると、私は罪から逃れて、
「地獄の猛火は変化して清く涼しい風になり、
さまざまな天の花を吹きそよがせる。
花の上には、みな化身の仏、化身の菩薩がいて、この人を迎え入れる。
一瞬のうちに<幸あるところ>という世界に生まれるのだ」。
私は、宝石の池の、蓮花の中に生まれます。
9段階による違いは、蓮花の中での待機時間。
下品下生だと、12大劫ののちに、花が開いて仏国土の住人となれます。
ああ、これでもう、死ぬのも安心だ。
図の引用元 http://pub.ne.jp/kenjin/?entry_id=2166813
9段階の条件も書かれているので、
自分がどれに当たるか考えるのも面白いですよ。
私は、よくて<中品中生>。
その上の中品上生は「五戒を守り」とあるので、酒飲みの私は不合格です。
しかしこの救済物語は、ほとんど釈迦仏教よりキリスト教に近いですね。
というのが、大乗経典の誹謗にあたるのであれば、
今、私は<下品中生>に堕ちました。
いずれにしても浄土に行けるのだから、別にかまいませんが。
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釈尊百景(6)椅子に腰掛けたお釈迦さま・深大寺
椅子に座ったお釈迦さまって、見たことがありますか?
私は見たことないのですが、あるんですねー。
深大寺・銅造釈迦如来倚像(重要文化財)
深大寺の釈迦堂にある釈迦如来像は、なんと白鳳仏という古さ
(全高83.9㎝、坐高59.3㎝)。
調布市に、そんな古くて珍しい仏像があるとは知りませんでした。
今では倚像=椅子がけ珍しいですが、
奈良時代にはよく作られたそうです。
このお釈迦さまも瞑想中なのでしょうか?
それとも、単に座って休んでいるだけ?
お釈迦さまも人間ですから、
単に座ってボーッと涼むこともありますよね。インドは暑いし。
深大寺の解説によると
「この像は明治四十二年(1909)、柴田常恵氏により当寺元三大師堂の壇下から
見出されて注目を浴ぴるようになったものです。
これより少し前、明治三十一年(1898)の『深大寺明細帳』に二尺八寸の
釈迦如来銅像を挙げて「坐像に非ず、立像に非ず」と注記してあるのがこの像を指すと思われ、
いにしえ古法相宗であった時の本尊と伝えています。
依然の伝来は不明で、もともとは近くの祇園寺にあった、という伝えもあるとさえ言われてい
ます。当寺に関する古い記録や縁起でも触れられておらず、
この像の伝来や当寺との関係は今だなぞに謎に包まれています」
奈良・正暦寺の秘仏・薬師如来も椅子がけです。
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